「わたしは弱い. . .」自分で弱いと決めつけることは『謙虚さ』ではなく『傲慢』だった


「愛とは夢から目覚める力」の著者、香咲弥須子さんは、傲慢さと謙虚さを履き違えていると、私たちの弱さについて、『それはわたしのではなく自我の思いだ』ということに気づける注意深さを身につけましょうね、と語りかけてくれています。


昨年は、母の日に私からダリアの花をプレゼントしましたが、今年は妹が紫陽花の花をプレゼントしたんですよ。


買ってきたばかりのお花って、私、今が一番輝いているの!ってくらい美しいですね。数日経つと、だんだん首が垂れてきて、人の身体と同じように花びらが内向きに巻いて小さくなって、シワシワのおばあちゃんみたいになってくる。


変わらないものはないんですね。


Life is transient.. .

人生は美しくも儚いもの。


Everythings is impermanent. . .

すべてのものは永久ではない。

諸行無常なり。



今日の聖句から. . . 
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‭ヨハネの第一の手紙 4章

愛には恐れがない。

完全な愛は恐れをとり除く。

恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。※懲らしめ(こ・らしめ)

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。

現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。

 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。
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デヴィッド・R・ホーキンズ博士の意識のマップは、私がいま理解できている範囲で話ますが、私たちは無意識のうちに恐れを選択してしまっています。

"恐れには懲らしめが伴う"というのは、愛を否定している状態ですね。

狭い人間には恐れがある。
狭い人間は潰れる。

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恐れには懲らしめが伴い、

かつ恐れる者には、

愛が全うされていないからである。

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意識のマップというのは、優劣ではなく、明暗の差なんですよ。

恐れを無意識に選択しているとき、愛を受け取ったり、感じることはできません。

ひとつしか選択できないんです。


罪悪感のレベルのプロセスは破壊です。
人によって度合いは異なりますが、自分を破壊へと駆り立てる言葉を使い、非生産的な行動を取ります。

境界性パーソナリティー障害の人は、リストカットしたり、自身の身体を酷く傷つける行為に走ってしまう。

自我は被害者を装おってますが、被害者体質とモラハラ体質の間がグレゾーン。
このグレーゾーンの人は、非常に苦しんでおられますね。

❤️‍🩹自我の正体は、『破壊』です。
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恐れには懲らしめが伴い、

かつ恐れる者には、

愛が全うされていないからである。

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アルボムッレ・スマナサーラ長老も、偽りの心』について、慈悲の瞑想動画で、同じように話されていました。

いい加減な偽善者であるかどうか自分を確かめなくてはいけない。偽善だったら効き目がない。私が嫌っている人も幸せでありますようにと念じたとき、そのとき偽善か否か分かる』と。
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「神を愛している」と言いながら
兄弟を憎む者は、偽り者である。
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グサッっと心にささる言葉ばかりですが、有り難いお言葉なのですよ。イエス・キリストは私たちが救われるよう救済を説いています。

良薬は口に苦し」といいますが、お釈迦様の教えは、実は、インドの神々が常飲するといわれている蜜のように甘い不老不死の妙薬であり、甘露のように甘く心に染み渡るようなものなんですね。

私の母は、正義面して、『私は平等に人を見れる』と言ったりしてます。随分なハッタリで面白い人なんです。

子育てにしても、子供が3人いたら3人とも全然性格違うじゃないですか。異性だと尚更、えこひいきしますよ。

だから、うちの弟はモラハラになったんですよwww

いくらお勉強ができて、良い大学に入って社会で出世しようが、自我の分析力、頭の良さ、繊細な感受性に惑わされないよう、心の働きを常に観察する必要があります。

私は伯母に言われて気づきましたが、繊細なところがありますね。

HSPの人は生まれもった性質がありますが、自我によって振り回されないように、その才能を霊的成長のために、人のために、徳になることのために使えるといいですね。

私も神経質なんですが、ナマケモノみたいな奴なので、ズボラで半々です。

割と何でも半々かな。
乙女座は完璧主義で神経質な人がいますが、家の床が鏡かと思うくらいちょっと怖くなりますね。

階段から滑り落ちるのではないかと思いました。ホラー映画のキッキッキッキッ. . .!っていう効果音が背後で流れてきそうなくらいだったんですよ。ホントに。


罪悪感を超えるということは、五感を超えるということ。

知覚を超えて、実在するものを見る。

この世の中に、幸せと不幸があるのではない。

真に幸せな時、わたしたちはこの世を超えることができる。

なので、繊細さとか、HSPとか、水瓶座とか、自分に代名詞つけたがるのが自我なので、それすらも超えたところに真の幸せがあるわけなんですね。

だから、なかなかブログタイトルをつけたがらなかったんですよ、わたし。

私は学生時代、ほとんど勉強しませんでした。大人になって、『神々しい』を『かみがみしい』と読み間違える人もいますが、私は漢字だけは興味ありましたね。なので、苦手な人のためにも、難しい漢字は読み仮名を添えるようにしています。

理科では、雌しべや雄しべ、花の構造にも興味関心がありました。漫画をよく読んでいたので、難しい漢字は辞書で調べたりして、ほとんどの漢字は漫画で覚えたようなものです。

小学4年生の頃、学校の勉強より御経の言葉=文言(もんごん)を教えてもらうのに、1時間が短く感じました。1日中聴いていたかったんですね。

次の日曜日が待ち遠しかったんです。

『無学』とは、学がない人ではなく、もう学ぶことがなくなった人、学びつくした人のことなんですね。

『学』とは、学ぶことがまだある見習い中の人のことです。

無学にしろ、学にしろ、いずれみんな仏になることができますよ、とお釈迦様は言われています。お釈迦様は、智慧(ちえ)の灯明です。献身の道は険しいですが、私たちは仏になれることを保証してくださっています。

仏法は、甘露(かんろ)。本来、甘くて豊潤で味わい深い教え。

複雑化したこの現代社会に、嬉しいときは素直に喜ぶ。単純さの中に豊かさがあるということ。

以前は、西洋占星術の占いなどに興味があって、色んな鑑定士さんの話を聴いていましたが、ヨガや仏教についても学んでこられた本当に精神性の高い人としかつながっていません。

イエス・キリストも、仏陀も、宗教をつくるつもりで教えを説いたわけではないんです。聖者たちは、最終的には自己を捨てる必要がある、と言われています。

それでも、宗教がないよりはマシですが、無宗教だと他国の方からしてみれば、危ない奴だと思われたりします。

日本でキリスト教を信仰する信者は、過去のデータでは0.8%くらいなのかな。

無宗教の人は、仏教すらも線香臭いと嫌厭(けんえん)する人が多いですが、智慧がないので、欲望、恐れの領域に振り回されたまま、人の陰口叩いたり、見栄張ったり、人を陥れたり、過干渉になったりするんですよ。

偽スピリチュアルであちこちと自分探しのために随分苦労して遠回りしている仔羊さんたちが沢山いますが、幸せは自分自身の内にあることを気づけるといいですね。


Om Shan Tee. . .
(オーム・シャンティー. . .)
平和でありますように. . .❤️‍🩹🍀