ある俳優さんが「言葉の相性の合う人が見つからない」と、おっしゃっていました


何故結婚しないのか、というような質問に答えていたのだと思います


「話しが合う人」ではなくて「言葉の相性が合う」という言い方が印象に残りました




比較文化論の日米比較でアメリカ人の人付合いは間口が広く、応接室まではすぐに入ることが出来るが、そこから先に入れてもらうのは難しい


逆に日本人は間口が狭く、中々家自体に入れてもらえないが、一度入れば最終的に受け入れてもらえたも同然だ、というような講義を受けたことがあります


かなりおおざっぱな分類ですが、なんとなく理解できます



始めの俳優さんの「言葉が合う」というのは、話しが合うより、細かいニュアンスまで共有できると、いう意味だと思います


言葉の使い方は、その方の考え方が反映されるので、同じタイミングで同じ感想を述べてしまうくらいの相性の良さなのだと思います


確かに相性は良いでしょう。言葉の選び方は、人となりを知る手掛かりになりますから決して軽視できません。でも、人生を共にするとなるとその先が重要なように思えます


「気が合う」「話しが合う」「言葉が合う」「肌が合う」


これは親友の条件のような気がするのです


時間も忘れて話し込んでしまう


若い時には当然だと思っていたそういう相手が見つからない


俳優さんの場合はそんな話しだったのですが


人生が渋谷のバーだけでできているなら


あるいは日だまりの縁側だけでできているなら


それでも良いと思います

でも日常はもっとベタなもののような気がします

「言葉が合って」もまだ惚れることができないのは夢のない証拠でしょうか


それとも応接室の他にもエントランスとか、ウェイティングバーとか、余計な部屋が増えてしまうのが大人の悲しさなのでしょうか?