日本に観光にきた外国人は、きっと必ず一つ位はお寺や神社にいくでしょう


日本人だって地方に旅行にいけば、有名なお寺や神社にいくでしょう


問題はたいていの場合両者の心持ちが同じであることではないかと思うのです


つまり、両者とも神聖な気持ちで観光している


一方、日本人がミラノのドゥオモに行くのと、イタリア人がドゥオモに行くのでは心持ちは明らかに違うのです


前者は神聖な気持ちでの観光、後者は信仰の一環


タイトルの哲学は広義の意味で、人生観や世界観、あるいは宗教と言い換えても良いでしょう


日本人には、哲学や宗教のように、大ピンチの時に大きな力にとなって己を救うものがなく、それが全体の混迷につながっているように感じられるのです


日本の移り変わりの早さ、日本人の飽きっぽさ、忘れ易さは世界に例を見ないものだと思います


流行も、町並みも、したことも、されたことも


すぐに変わるし、すぐに忘れる


みんな使い捨てです


ヨーロッパをやみくもに崇拝するつもりはありませんが


何百年も同じものを同じように作っている会社というのが、まだ存在しています


確かにヨーロッパでもグローバル経済に移行して以来、そういった会社は存亡の危機にさらされはじめてはいますが、まだ日本に比べれば遥かに市場は残されています



頭に思い浮かべた日用品がほとんど100円ショップで手に入るというのは


国の経済活動からみると実に異常な状態だといわざるをえません


安くて便利だからといって喜んでいる場合ではないのです


何でも100円のものを消費者が求めれば、生産者も物作りの基準を100円に設定するしか道はなくなります


そこに、付加価値や技術の入り込む隙はありません


野菜の泥を落とす手間を消費者が惜しめば、生産者は、コストがかかっても野菜を洗って切り揃え、薬を撒いて出荷します

値段も高く、薬による危険も増した野菜の方が売れるのは、哲学より便利さを優先する消費者が多いからです


飽きっぽい消費者のために、企業は毎シーズン季節限定品を生み出し続けなければなりません


簡便で安くて目新しい物、ここには世界観も人生観もありません


近年まで、先進国は国をあげて拡大を続けてきました


ところが、急速に縮小してしまった経済も資源も 、今後も拡大する見込みはありません


これからは一人一人が自分にとって本当に必要な物を定めて


生活自体も縮小していかなければなりません


その時に、簡便安価目新しいの法則を求め続けるなら


先ずは経済から破綻して、日本は著しい空洞化の末に、貿易によって食糧を確保する力すらなくすでしょう


必要な物を必要なだけ、身の回りに置いて生活するためには


各人が選択の基準を持たなければなりません


どう生きたいのか、何を優先させて、何を切り捨てられるのか


混迷して先が見えない時代だからこそ


自分の方向性を示す指針となる哲学を個々人がもつことが、国全体の方向性を決めていく礎となるはずです