ビッグブラザーと呼ばれていた70年代 | ロスからの声

ロスからの声

物足りないロサンゼルスについて書いています。



昨日のビビのレポートを書いてい70年代のロサンゼルスを思い出した。
1976年のパリに拠点が移り、一年ぶりのロサンゼルスは
ロンドン、パリそしてニューヨークでブロンディを生み出した
パンクの嵐が吹き始めて居た。

宿のしていたのは友人の編曲家デビットキャンベルの家であった。
奥さんのビビ、そして生まれたばかりのBECKがハリウッドの
レインウッドの一軒家に住んでいた。

ハリウッドブルバードとサンセットの間を走る松の並木道にその家はあった。
2階の部屋が僕の部屋だった。
ある日ビビから「今日から父親のアルがNYから来る事になった。一緒の部屋よ。
楽しんでね」と僕は27歳アルは50代だった。





もう年齢など関係ないくらいうちとけ、ある朝起きると「モンキービジネスと言うバーが
ある、飲みに行こう』と連れ出される。
薄暗いバーカウンターでビールを頼みジュークボックスでアルが選曲するのは
NYが懐かしいのかフランクシナトラだった。





そして夜になるとビビが合流し、ウイスキーアゴーゴー、スターウッズそしてトルバドール



などなどのライブハウスをライブが終わる明け方まで飲み歩く。
毎日の事なのでライブハウスは顔パス。

楽屋でミュージシャンと大騒ぎ、終わると家に一緒に連れて帰り明け方まで
ドンチャン騒ぎの毎日。




ウイークデーはアル以外は仕事、週末になると倒れるまで歩き回っていた。
LAでもブロンディが初公演する頃にはLAパンクがしっかりと生まれていた。
筆頭はスクリーマーズ、リーダーのトマトの死は痛たかった。




そしてデビュー前のDEVO,チープトリック、ロスのローカルバンドして人気の成った
ザ ベストなどもう、バンド仲間のような、家族の様な、兄弟の様な兎も角
ステージ、オフステージ何時も一緒だった。




これが探しても出て来ないのだが、皆で映画を作った。
今日はそれぞれが選び、俳優を決め皆で撮影した。
例えばピロート-クをいう有名な今日があった。
薄暗い公園で長いブランコにワンピースを着たゲイがブランコで揺れていて
口から血を流しながらピロートークを延々歌っているうちに日が暮れて行く。
なんて奴。
この頃はまだMTVが生まれる前で、只無心で作品を作り、ウイスキーアゴーゴー
などのライブの前に上映をして客を湧かしていた。
マイナーでクリエイティブな今でいうコンテンポラリーなアートみたいだった。



この一部がMTVを作り上げて行った。

どんだけ、お酒を飲んでいただろう。兎も角、ライブを観て皆で朝まで話していたと言う記憶しか無い。
日常に成っていた。

ウエストハリウッドにレインチェックというバーがあり僕らのお気に入りだった。
ビール片手にビリヤードをやり、大音量でパンクが流れていた。
何時も、意識がハッキリしていた僕がタクシーを呼びビビとアルを連れて
『さあ帰ろう』という日々であった。




其のころからアルとビビは僕を『ビッグブラザー』 アニキ!!と呼ばれていた。。

青春だ!!と思い出していた。

次回はアルとビビの話しをします。

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