言葉のノーメイク | 春日井 美容院 Lorran(ローラン)

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【言葉のノーメイク】

脳科学者の茂木健一郎氏の心に響く言葉より…

人間は鏡を見て、つねに自分の姿を確認してきた。

とくに外出する前や人前に出なければならないとき、大切な人と会う前、もしくははじめて人と対面する前、必ず自分の姿を鏡に映して確認し、女性であればそこで化粧をしたり、化粧直しをしたりする。

そして、女性にとっては化粧しないで人と会うことは心許(こころもと)ないに違いない。

ところが、僕は最近、疑問を覚えざるを得ないことがある。

これほどまでに姿かたちに対しては神経質になって、鏡に映し、念入りに化粧をするにもかかわらず、言葉や表現、身ぶりに対しては大して確認もせずにすっぴんのまま人前に曝(さら)している人が多くなっているのではないだろうか。

とくにネットワーク社会に瀰漫(びまん)する匿名的主体と不特定多数による暴力性に直面すると、この「言葉のノーメイク」にははなはだ疑問を覚えてしまう。

言葉を書いたとき、言葉を発したときに、それが他者にどのように受けとめられるかということを確認する鏡が、機能していないのではないだろうか。

ネットワーク上ばかりではない。

公人による問題発言の数々も驚きとしかいえない。

自分の発言がどのように人々に受け取られるか、自分の立場と、それが世間に与える影響をなぜ事前に鏡で確認しないのだろうか。

たとえば政治家が、寝癖がついた髪で、髭(ひげ)も剃らず、目やにがついたままの目で人前に現れれば、わたしたちはぎょっとするか噴出して笑ってしまうに違いない。

『化粧する脳』集英社新書


「人は見た目が9割」という本がベストセラーになるほど、我々は外見を気にする。

しかし、そういった外面に比べて、言葉や心といった内面を磨く努力はなおざりになりがちだ。

特に、昨今の匿名性の高いネットでの暴言や、汚い言葉は目に余るものがある。

寝起きのままで外出するような、外見をかまわない人がいたとしても、びっくりはするだろうが、人を傷つけることはない。

だが、暴力的なネットでの言葉や、発言は時として、人を傷つける凶器ともなる。

どうせ、何を書いても、誰が書いたか分からないだろう、と高(たか)をくくることは、ある面での犯罪行為ともいえる。

外見を装う化粧には、鏡という自らを映し、確認するための手段がある。

同様に、内面を吐露(とろ)するネットでの発言や、公の場でのスピーチなどにも、自分を映し、確認する鏡が必要だ。

文章を書いたら、何日か放っておき、何回も推敲するとか、誰かに読んでもらうとか、の確認作業。

ネットは、手軽で簡便な発信手段だ。

だが実は、クリックひとつで瞬間的に公(おおやけ)になってしまう、極めて公共性の高いものでもある。

化粧や身だしなみにかけるのと同じくらいの時間と熱意を、文章やメールにもそそいだら、どんなに素敵な文章になるだろうか。

発する言葉や文章は、まぎれもない自分の分身。

表現や言葉を磨き、人を喜ばせ、幸せにする文章を発信したい。