6月27日、東宝特撮の牽引者でもあった中野昭慶が逝去された。
86歳だった。
1959年(昭和34年)に東宝入社後、即「潜水艦イ-57降伏せず」で特撮助監督を務めたことが縁となり、円谷英二より指名され、『キングコング対ゴジラ』より東宝特殊撮影技術班の助監督となって以降、特撮畑の道を歩んだ。
数多くの特撮作品の特撮助監督として円谷英二を補佐して、二代目特撮監督となった有川貞昌にも従事してきたが、円谷英二が亡くなり、その死去によって有川貞昌も東宝を離れた後、三代目特撮監督として多くの特撮映画に携わってきた。
しかし、昭和後年のゴジラシリーズは、円谷英二が健在だった頃のように大勢のスタッフがおった訳ではなく、かつ特撮に回された予算も抑えられていた為、かなりの制約の中で作品を作らなければならない苦労があったようや。
そんな中でも1973年(昭和48年)公開の「ゴジラ対メガロ」のダム破壊シーンは、破壊シーンのない特撮映画の無意味を製作側に説いた中野の働きによって得られた追加予算で作られたもので、単調な作品の中で唯一迫力のあるシーンとなっている。
また、平成ゴジラシリーズの特撮監督でもある川北紘一の熱線応酬の手法とは異なり、生物として肉弾戦を主体とした戦いの演出は面白い試みやったし、画面上の迫力はあったように思う。
実際の怪獣の演技に対する殺陣も自らつけていた。
そして、彼の代名詞といえば「爆破の中野」と呼ばれた、火薬を多様・多量に利用した爆発映像。
ゴジラシリーズでも多くの爆破シーンを撮影してきたが、「日本沈没」や「東京湾炎上」のようなパニックもののほうが本領発揮できていたように思う。
ワイにとっては初めて映画館で見たゴジラ映画が1972年(昭和47年)の「地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン」で、その特撮監督が中野だったこともあったので、ゴジラとアンギラスの吹き出し会話とかガイガンの回転ノコギリカッターによる流血シーンとか非常に思い入れの強い方ではあったが、晩年の「首都消失」や「竹取物語」の出来がイマイチやったことから、製作費があったとしてもええ作品が作れるわけではないことを知らしめてくれた記憶の方が強い。
しかし、特撮映画の黎明期から入り、更には過度期をも生き抜いて東宝特撮を支えてくれた方でもあり、感謝の言葉しかない。
これからは天国におられるであろう円谷英二・有川貞昌と日本特撮映画についてあれこれ語りあってほしいと願っている。