『虹のかなたに』 -4ページ目

『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 怒涛の如き忙殺の日々を経て、漸く夏期休暇に入っている。夏休みだけはしっかり7日間もらえるので、旅行に出る社員も多いようだが、私は休みになると体調を崩す、というより、それまで抑圧してきた病原が休みに入った途端、一気に顕在化して体を蝕むのが常であるから、よくできた身体と言うべきか、とにかく夏風邪でダウンである。サービス業従事の家人は盆休みなど関係ないので、誰もいない静かな部屋で、普段では考えられぬ怠惰な時間を過ごしている。
 
 しかし、悠長に休んでいる場合でもなく、溜まる一方である目前の課題を思うと、全く落ち着かない。その中の一つに、来年の6月に某大手出版社から刊行される実用書の執筆があって、休み中というのにその後の執筆状況はどうなっているのかという督促メールが来るものだから、精神的な逃げ場がなくて誠によろしくない。印税生活は確かに夢ではあるけれども、本当に書きたいのは実用書などではないし、そもそも仕事の一環としてやっていることだから、入ってくる印税は全て会社に納めなければならない。つまり、「印税生活の第一歩」などではないのだ。まだ半分くらいしか筆が進んでいないこの原稿、何とかこの休暇中に仕上げてしまいたいものである。
 
 ――と、ここまでは休暇初日に記したのであるが、この駄文を記すことすら途中で心が折れ、出版社の編集者が夢にまで出てくるという強迫観念と闘いつつも、結局無為に日々を送ってしまって、気が付けば明日は社会復帰の日である。しかるに山積する課題は全く決着が付かない。8月31日、学校の夏休みの宿題が全く片付いておらず、家族総動員で泣きながら取り組んでいる子どもの気持ちを、四十路を迎えてなお味わわねばならぬのかと思うと陰鬱で仕方がないが、追い詰められれば現実逃避に向かわんとするのも、凡人の心持ちというものであろう。という訳で、こうして駄文の続きを認(したた)めんとしているのである。
 
 さて、夏休みの宿題と言えば、小学校時代のそれ――全国共通の呼称であったのかは知らないが、私の通った学校では『夏休みの友』という甚だアイロニカルな名前が付けられていた――を思い出す。漢字や計算といったドリル的なものは機械的作業であるから、少々溜めてしまったとしても、根を詰めてやれば何とか済ませられるものであるが、私を苦しめた『三大夏休みの友』、すなわち、国語の読書感想文、図画工作の絵画、そして理科の自由研究はなかなかに手強く、難攻不落であり、どうにかして楽に乗り切ろうと、ない頭なりに悪知恵を働かせてみた。
 
 まず、読書感想文。これには、教育現場と出版業界が結託して(?)毎年指定される「課題図書」なるものが付いて回るのだが、この「課題図書」というのがどうもいただけない。読書感想文コンクールにおいてこれを読むことは必須ではないが、膨大な量の図書を前に、読むべき本を決めることにさえ苦しむ子どもたちは、須らくこれを選ぶのであって、そうした子どもたちの心理に付け込んだ大人のあくどさが見え隠れするような気がしてならない。それに、作家の浅田次郎氏の至言を借りれば、「読書は娯楽であり、道楽」(第17回東京国際ブックフェアの「読書推進セミナー」での発言)なのである。「課題」だなんて言われた時点で興が醒めるというものだ。そんな訳で、「課題」なのだからドライに片付けてしまおうと思った私は、図書館で適当な詩集を手にし、その中の一篇を選んで、そこに描かれた情景と作者の思いを想像し、それに対する所感を膨らませ、原稿用紙3枚ほどの“読書感想文”を仕上げて提出した。手にした担任教師は苦虫を潰したような顔で読んでいたが、娯楽、道楽たる読書を、「感想文を書かせるという課題」に貶めている教育現場に一石を投じることができたのなら望外の喜びだ。たぶん違うだろうが。
 
 次に、絵画。これは画才が皆無の者にとっては拷問以外の何物でもない。かてて加えて、提出した全員の絵を教室の後ろに張り出すというのは、京都三条河原の晒し首と同じ辱めではないかと今でも思う。というのは、絵の巧拙を論評されることもさることながら、殆どの児童が「夏休みの思い出」と称した旅行先の様子を絵にするものだから、さながら“我が家の旅行先自慢”の様相を呈するという、本来の趣旨などぶっ飛んだことになるからだ。海外旅行が専らブルジョワの営みであった時代、「ハワイの思い出」なんてものが掲示されると、それだけで皆の羨望の的になるのだが、一方で、近所の山で捕まえたかぶと虫の絵など描こうものなら、「夏休みというのにどこにも連れていってもらえなかった可哀相な子」のレッテルが張られるのだ。これは大いなる不条理である。私はささやかな反骨心から、夏休みとは何の関係もない、自分の掌をスケッチして提出した。
 
 最後は自由研究。この頃はまだ理科は好きであったから、取り組むこと自体に苦はなく、割と早い段階から構想を始めた。しかしあれこれ試行錯誤を重ねるのであるが、どうも上手くいかない。勝手に硬貨ごとに仕分けをしてくれる貯金箱は、当時出回り始めたばかりの500円玉が引っ掛かって失敗。手動のレコードプレーヤーは、縫い針で代用したためにレコードを傷物にして終わり。電池の要らない懐中電灯は、コンセントから電源を取ったために通電するや豆電球が爆発し火傷を負う。我が身の頭脳の足らなさを呪うばかりで、これだけは浅知恵を以てしてもごまかすことはできず、ありきたりのものを提出する外はなかった。
 
 2学期になって、読書感想文や絵画は誰の作品を見ても何とも思わなかったのだが、自由研究については、一人の女の子の発表に衝撃を受けた。たまたま氷を白いタオルに包んで持ち帰ったところ、あまり溶けていないことに気付き、そこから着想を得て、「白いものには保冷効果がある」という仮説を立て、諸条件下における氷の溶け方の違いを実験し、その結果をまとめたものである。黒い布は熱を吸収するので溶けやすく、白い布は逆に反射するので溶けにくいとか、食塩をまぶすと一層溶けにくくなるとか、いずれも目から鱗、鱗が落ち過ぎて失明するのではないかというような発見ばかりであった。担任教師は激賞の後、俄然躍起になり、何かのコンクールに出すと宣言した。おとなしい子であった彼女は、ある日突然脚光を浴びることになったことにうろたえ、恥じらい、頬を赤らめていたのだが、その様がまたしおらしく、忽ちにその虜となった。それから毎日、放課後は出展に向けた彼女のアシスタントを行った。『夏休みの友』への不貞腐れた反撥はどこへやら、彼女のシンデレラストーリーに関わることに、大袈裟かもしれないが自分の生き甲斐を見出した。確か、県大会を通過し、全国大会にまで出場したと記憶する。
 
 彼女が今どこでどうしているのか知る由もないが、「あなたも腐っていないで頑張りなさいよ」とその少女が耳元で囁いてくれている幻想を抱きながら、目の前の課題に明日からまた向き合っていかねばと腹を括る、夏休み最後の1日であった。
 
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 先日、購読しているANAメールマガジンから「需要喚起2」と題し、本文には「sample2」とだけ記されたメールが届いて、少々吃驚した。ANAに搭乗したのはこれまでの人生の中で僅か4回、しかも出張など必要に迫られて乗っただけである。マイレージも、出張時のチケット手配が楽だからと総務部に勧められてカードを作っただけでほとんど貯まっていない。もともと飛行機に乗るなら基本的には鶴のマークを選んでいたが、別にANAが嫌という訳ではなく、マイレージカードはJALしか持っていなかったからというだけのことで、JALの搭乗回数だって知れているのである。そもそも飛行機というものが苦手であったから、時間や距離の関係で、それしか選択肢がないという場合にしぶしぶ乗っているといった具合である。
 
 大体、あんなドでかい金属の固まりが宙に浮くなんて、如何なる科学的説明を施されたところでどうしても納得ができない。それに、飛行機というのは乗っている間が狂おしいまでに退屈である。本でも読めばよいではないかという意見もあろうが、私は、乗り物の中で本を読むということができない。読書というのは、自宅の自室に籠り、誰の邪魔や干渉も受けることのない静謐の中で営まれるべき文化的行為だから、パブリックな空間の中で本を開くなど埒外なのである。窓外に目を遣れば、衛星写真を見るような体験ができると言う人もいるが、それは、雲一つない晴天の下、しかも地形の変化を見て取れる場合に限った話である。曇天であれば眼下に広がるのは雲ばかりであるし、例えば太平洋を横断する国際線で、どこまでも続く変哲のない、“海しかない海”を見続けるなど、精神衛生的にもよくないに決まっている。一度、グアムに行ったことがあるが、関西空港から3時間半、ただ海を見ているだけというのは地獄であった。「グアムは近い」などと言う者の気が知れない。ましてや帰路は、ひたすら漆黒の闇の中のクルージングである。機内のモニターに表示される現在位置を表示する地図をずっと凝視していて、いつまでも見えぬ日本列島を思い、頭がどうかなりそうだった。
 
 私の飛行機忌避はそんな次第であるから、「需要喚起」なんて、唐突かつ一方的に言われても困るのである。おそらく相手もそれを見透かし、「そうは言ってもたまには飛行機にも乗ってくれよ」という意思表示なのだろう。しかし、そんなことで私の内なる潜在需要が喚起されることを期待するなんて、甘いのだ。尤もその日中に、誤配信でしたごめんなさいとお詫びメールが来たのではあるが。
 
 さて、私が初めて飛行機というものに乗ったのは大分遅くて、大学3回生の時である。母方の祖父が、一族郎党で北海道旅行をしようと言い出し、総勢12名で徒党を組んでの旅行を行うことになった。皆は広島空港からの出発だったのだが、私はアルバイトのシフトの調整ができず、単身、大阪から出発し、羽田で合流せよとのことであった。飛行機に乗ることに怯える私は、この旅行自体に乗り気ではなかったのだが、自分だけ不参加というのも角が立つと思い、参加はするがせめて羽田までは新幹線とモノレールで向かいたいと申し出た。ところが頑固者の祖父は、「新幹線は時間がかかる」「新幹線は途中で何があるかわからんから、伊丹から飛行機に乗れ」と言う。それに対し私は、「ウチは新大阪駅の近所やねんで。ちんたら空港まで行って飛行機乗って、離陸する頃には、新幹線は既に名古屋を過ぎとる」「大体、飛行機の方がよっぽど何があるかわからんわ」と抗弁したが、頑固者は聞く耳を持たず、「頼むからおじいちゃんの言うことを聞いてくれ」という関係各方面からの懇願哀願に折れる形で、恐怖に慄きながら単身、大阪空港へと向かった。
 
 搭乗便は、8時台発のJAL。機内はビジネス客などで満員である。叔父が手配してくれたチケットに示された席が、窓から離れたど真ん中だったのは、多少なりとも恐怖を和らげようという配慮だったのかもしれないが、そんなことで「金属の固まりが宙に浮く」恐怖など拭えるはずもない。ボーディング・ブリッジが外れ、機体がゆっくりと動き出す。しかし、離陸機が輻輳しているらしく、なかなか滑走路に出ない。15分くらい経った頃、漸く、「皆さま、この飛行機は間もなく離陸いたします。お座席のシートベルトを、もう一度お確かめください」のアナウンスが流れた。滑走路に出て、機体は一旦停止する。Tシャツにジーパンという軽装にも関わらず、私の体からは止め処もなく汗が流れ落ちる。拳を握り締め、目をぎゅっと瞑る。徐々に高まる轟音が聞こえてきた。胸の鼓動が高まり、口から心臓を嘔吐しそうである。それまでの亀の行進が嘘のように、急激に加速を始めた。全身で慣性の法則を体感し、背凭れに自分の体躯が食い込んでしまうのではと震える。そして遂に、機体は地面から離れた。内臓が一気に浮き上がる感覚に、殆ど失神同然となり、そのまま眠りこけて、我に返ったのは、羽田に着陸するときの衝撃によってであった。この間約1時間だが、私には永遠に感ぜられた。ロビーで待ち構える一族郎党どもは、憔悴し切った私の顔を失笑しながら迎えてくれたが、それに反応する余裕もなく、暫くは茫然自失となっていた。
 
 後に、大学の卒業旅行で再び北海道へ行くことになり、留年が決定していたにも関わらず半ば強引に参加した。今度もやはり飛行機である。これまたアルバイトの関係で、私は1日遅れの出発となったが、当時完成したばかりの関西空港から搭乗したJAL便の座席はいわゆる“お見合い席”。離着陸時は美しいCAとの会話に花を咲かせ、「飛行機って最高!」などと平気で掌を返す豹変振りであった。因みに先発隊は、大阪発の便が取れず、大阪発の夜行急行「だいせん」で米子まで行き、そこからANK(エアー・ニッポン、現在はANAが吸収)の始発便で千歳へ向かうというとんでもないルートを大学生協に斡旋された。北の大地へ飛び立つ者が、なぜか真逆を向いて前夜から出発し、頼りないプロペラ機に詰め込まれて遥々向かったのとはあまりに好対照、JAL便を羨んだそのときの参加メンバーから翌年に届いた年賀状には、「打倒ANKを決意した昨年でした」と記してあった。別にANKには何の落ち度もないのに。それより本当のところは、「だいせん」で逆を向いて出立した仲間たちが羨ましかった。やっぱり私は陸上の旅が好きなのだろう。その「だいせん」も廃止になって久しい。
 
 死ぬまでにもう一度、北海道へと旅したい。それも、「トワイライト・エクスプレス」の展望スイートに乗って、列車の中から大地と海と空を一時に眺めつつの豊饒の時間を過ごしながら、“移動そのものを楽しむ旅”をしたいと願っていたのだが、その「トワイライト」も来春、遂に姿を消すことになってしまった。そうでなくてもプラチナチケットと言われる列車であるから、これから先のお別れ乗車は、きっと叶うまい。北海道新幹線が開通したら、東北本線の「北斗星」なども同じ末路を辿るであろうと今から囁かれている。つばさを広げて空を翔ける旅にも馴れてはきたが、それでも陸上派の私は、“移動そのものを楽しむ旅”の機会を奪わないでほしいと思う。
 
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 先日、来春入社予定の新卒内定者たちを前に、30分ほど話をする機会があった。弊社の魅力とか、新卒に期待することとか、そういうことを話せばよかったのだろうし、もとよりその予定だったのだが、“まくら”のつもりの、入社からこれまでの自分の歩みを語るだけで時間が来てしまい、本題にまで行き着けなかった。人事部のメンバーが苦笑しているように見えたけれども、喋っている当人こそが最も情けなく思っている。
 
 ただ、こういうことは、私にとっては極めて日常茶飯事である。あること(A)を話していているうちに、付随する話題(B)が思い浮かび、そっちへ話が及ぶ。そのうち、今度はBから派生する別の話題(C)を喋ってしまう。かくして話はD、E、F、G……とどんどん脱線し、終いにはZまで飛んでしまって、畢竟、最初のAが何であったか思い出せなくなる。喩えて言うならば、「りんご、ゴリラ、ラッパ、パンツ、ツーショット、床上手、図々しい、犬畜生、姥捨山、マゾヒズム、村八分、無骨者、伸るか反るか、海難審判」……あっ、終わってしまった。そう、つまらないしりとりをやってみたのだが、最初の「りんご」と、最後の「海難審判」だけをつないでみても、脈絡など見出せるはずもなく、ここまで来ると最早脱線どころではなく転覆である。私の話の脱線転覆ぶりは、まあこんな感じなのである。
 
 ここまで度を超した自分の話の無軌道ぶりに、これは一種の病気なのではあるまいかと思って、あれこれ医学関係の記事を漁ってみるも、当てはまる症状が見つからない。かかる拙文をご覧いただいた全国の医療関係者の皆さま、症例と治療法がございましたら何卒ご教示くださいませ。
 
 喋りに関する悩みはもう一つある。一度語ったことのある内容を、初めて喋るかのように再び話してしまうことである。「かのように」と記したが、当人は無論初めてのつもりである。家人などは都度、「前も聞いたし」「何回言うねん」「ヤバいんちゃうか」「ええ加減にしてくれ」とキレ気味に指摘してくれるのでそれと気付くのであるが、大概の心優しき人たちは、腹の中では家人同様のことを思っているにも関わらず、ニコニコしながら他愛もない繰り言を聴いてくれているのだ。それを思うと喋っている本人が居た堪れなくなる。
 
 昔々のことだが、大学の友人に誘われて、合コンに行ったときの話である。大学の近くで呑んでいた折、彼が、少し前に『ナースとのコンパ』に参加して大変よかったと言うものだから、「再度設定の上、今回はオイラも呼べ」とオファーして、実現に至った。当日、気合いを入れて行ってみると、ところがどうも様子が違う。よくよく聞いてみると、『ナースとそのお友達とのコンパ』だったのだ。しかも、どちらさまも年上のお姉さまばかりで萎縮してしまったのだが、それでも何とか場を盛り上げようと、トークに精を出す。
 
 そうこうしているうちに、一人のお姉さまがぽそっと言葉を発せられた。曰く、「○○さん(=私の名前)って、喋りは確かに上手いけど、中身がないですよね」。
 
 ……。
 
 打ち拉がれる本人をよそに、メンバーの男子が「じゃ、一人4,000円で!」と高らかに発声し、あっけなく閉宴となった。その後、野郎だけで、ラーメン屋にて口直し兼反省会を行ったのだが、そこで彼は「割り勘にせずにはおれぬほど酷いコンパであった」といきり立った。しかし私の頭の中では、「喋りは確かに上手いけど、中身がない」のフレーズが、祇園精舎の鐘の声の如くにいつまでも鳴り響いていたのであった。
 
 さて、四十路を超えた自分は、健忘症の度を深めているのではないか、はたまた若年性認知症を発しているのではないかと、不安と焦燥に駆られる日々であるが、若き日の合コンの一件を思い出すにつけ、きっと、大したことを喋っていないから自分自身の印象にすら残らず、話が脱線転覆したり、あるいは同じ話を何度もしたりするのだろうなあという納得と諦念が、我が心中に広がるのである。
 
 明日は会社の研修で、80分一本勝負の喋りを行う。喋ること自体は全く苦ではないし、それが仕事なのだけれども、怖いのは、“毎年やっている”研修であることだ。パワーポイントは昨年の焼き直しに甘んじることなく新作したが、喋りの方も、きちんと新しいことが話せるか、些か心配である。「去年と同じことをまた言うてる」とならないよう、そして、「中身のある話」ができるように努めたい。またどうせ、脱線転覆するのだろうけれども。
 
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 大阪港(やはり「天保山」と言わねば通じないが、めげずに第一声は「大阪港」で通している)での新生活も、驚くほどあっという間に1週間が経った。漸く諸々が落ち着いたところであるが、引っ越しって、肉体にも精神にも財布にも、こんなにきついものやったんかいなと、大概疲れ果てている。
 
 引っ越し代を少しでも安く上げようと、レンタカーを借りて、細かい物品は自分たちで運んだのだが、三国と大阪港の間を3往復もするのに、淀川左岸線が開通して画期的に速くなったからと阪神高速を使ったものだからその料金が嵩み、あまり意味がなかった。北浜にある営業所に車を戻せたのが23時。それから地下鉄で新居に帰り、何とか寝床だけでも確保しようと最低限の片付けをして、眠りにつけたのは、夜も明けなんとする4時半であった。家人共々、辛うじて確保した休日1日で全部をやってのけようとしたのがそもそも無体な話だったのかもしれないが、翌朝は2人とも通常出勤であり、日中の睡魔との闘いはこの上ない苦行であった。
 
 以降、仕事から帰ってきて少しずつ荷解きをしたので、段ボールの全てが片付いたのは4日目。それまでの間、家での食事は全部立ち食いである。最後は流石に、外へ食べに行こうと出かけたのだが、周囲はどこを見ても海遊館等のレジャー客ばかり。引っ越し疲れの負のオーラを放つ者など当然おらず、明らかに浮いている。最近はマンションも増えてきたらしいが、まだまだ生活臭の漂わぬ街である。
 
 前の住まいでの生活を始めるときに買い揃えた家電の多くを手放さねばならなかったのも堪(こた)えた。新居はエアコン備え付けの物件なので、自前の3台は全てが不要になった。冷蔵庫はサイズが大きくて入らず、買い替えを要する。オール電化マンションなので、ガスコンロも不要。結局、そのまま持っていけた大型家電は洗濯機のみである。いずれも購入からまだ4年くらいなので、多少なりとも売れればよいと思ってリサイクル業者を呼んだら、「買取の値が付くのは3年まで」とのこと。“減価償却”もできていないのに、売れるどころか、処分の費用に11万円取られたのには卒倒しそうになった。もしやこれはぼったくりではないかという怪訝は今も拭えていないが、他を当たる時間的余裕は既になく、泣く泣く大枚を叩くことになったのは痛恨の極み、当面引っ越しなどすまいと固く決意した次第である。
 
 そんな感じでぼやいてばかりの1週間であったが、何にも増して辛かったのが、慣れ親しんだ街との別れである。この数日は、早くも前の住まいである三国を思い、夫婦ともにホームシックに罹っている。改めて、あの街はお気に入りだったのだと実感する。
 
 最後の3日間ほどは、「お別れ行脚」と銘打って、いろんな店を回っていた。常連を目指した居酒屋、皆まで言わずともツボを外さない整骨院、アイコンタクトだけで電子マネー決済してくれるドラッグストア、食べ物の好みを完全に覚えられたコンビニ等々。一軒ずつ巡って、「引っ越すんで、今日で最後なんですよ」と挨拶したかったのだが、勝手に感傷に浸って胸が一杯になり、どの店でも、何も言わず普段どおりに辞去してしまった。
 
 私が勝手に「三国三大小町」と呼んでいた人たちとのお別れも叶わなかった。某整骨院の受付のFさん、某スーパーのレジのYさん、某薬局の薬剤師のSさんの3人である。絶世の美女という訳でもない……と言っては失礼なのだが、笑顔に何とも言えぬ愛嬌があって、癒され続けた4年間であった。特に、Yさんが、釣り銭とレシートを返す時に上目遣いでこちらを凝視してくるのは、仕事帰りの疲れ果てた男には堪らなかったのである。でも、Fさんは、こちらが引っ越すより前に退職していたようだし、YさんやSさんは勤務のシフトが合わなかったようで、ご尊顔を拝することなく、彼の地を離れることになってしまった。
 
 いずれにしても、三国というところは、余所者を排他することをせず、付かず離れずの距離感で包み込んでくれる、何ともゆるく、そして懐の広い街なのだった。暮らしたのはたった4年だけれども、10年も20年も住み続けたかのような錯誤を覚える、そんな街なのである。だから、今回ほど引っ越しを辛く、淋しいと思ったことがないのだ。
 
 明確な故郷を持たない私は、一度も暮らしたことのない岡山県の山奥に長年置いていた本籍地を、結婚を機に、大阪市淀川区に移したのだが、今、これをどうしようかと考えあぐねている。いっそのこと、「大阪府大阪市中央区大阪城1番1号」、つまり大阪城天守閣にでも置こうかとも思ったが、本籍なんて今や運転免許証にも表示されず、形骸化の最たるものであるから、ならば三国の地にいつまでも思いを馳せ、叶うことならいつかまた戻ってきたいという願いを込めて、そのまま置いておこうという結論に達した。
 
 そういうふうに考えれば、新しい街でも安心して暮らせそうである。「有史より大阪という街は、港から生まれ、港に育まれ、港から糧を得た」とは、いわゆる“大大阪時代”の発展を支えた当時の大阪市長・關一の言葉であるが、我々もまた、港に育んでもらいながら、これからこの地で、分相応の生活を営んでゆきたいと思う。
 
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 昨日、大阪港への引っ越しと相成った。相変わらず「天保山」と言わないと通じない人が多いが、住所は港区築港1丁目、何と言われようと「大阪港」である。引っ越しの理由も前回記したが、我が家の財政状況を鑑みて、「今より3万5千円以上、家賃を抑えよう」というところから、物件選びが始まった。
 
 第27回でも綴ったが、私の人生は正にジプシーであって、今度で8つ目の住まいである。平均すれば5年に一度転居している計算になるが、なかなか根を下ろして「その土地の人」になれない。出身は枚方であるが、ここで暮らしていたのもわずか4年ばかり、“生まれ故郷”のことを時々抒情的に語ってはみるのだが、私のどこを叩いても、北河内の匂いなどしない。かと言って、一番長く暮らした天満は、今もJR環状線でしばしば通るのだが、車窓を眺めても、あまり懐かしいという気持ちにならない。最もしっくり来るのは淀川区で、居住歴は通算8年ではあるけれども、なぜか北摂の地にはそこはかとない愛着と郷愁を覚える。だから、結婚して最初の住まいは再び淀川区を選んだのだし、今回の引っ越しに際しても、何とか遠く離れぬところで見つけたかった。しかも、勤務先では「北摂会」なる会合を主宰しているくらいだから、会長の私が淀川より南下することは何としても許されないのだ。
 
 築年数が少々古くてもよいから、「淀川を越えない」ことを念頭に、賃料を始めとする諸々の条件を設定して、方々の住宅情報サイトを検索する。しかし已んぬるかな、梅田まで10分少々などというところに好物件などあるはずもなく、あっても他のネックとなる要件が重なり、検索範囲はどんどん郊外へと広がってゆく。ところがここで一つ、立ちはだかる壁がある。郊外物件の半数以上について回る、「駅からバス」という条件が飲めないのだ。私の帰宅が遅いため、最終バスに間に合わない可能性が多分にある、換言すれば、毎日タクシーで帰宅などしていたら引っ越し自体の意味がなくなるのも理由のひとつだが、それ以上に問題なのは家人である。他に類を見ない三半規管の弱さと血圧の低さを誇る女で、車に3分乗るだけでもみるみるうちに顔から血の気が引くのだ。従って、毎日バスで通勤するなどとんでもない話なのである。ならば電車ならよいかと言えばそういう訳でもなく、満員電車で10分以上揉まれていると必ず貧血を起こし、駅長室に運ばれる。
 
 全く面倒な話であるが、故に、郊外なら「始発電車のある駅」が必須の要件となる。大阪府内の北摂地域でこの要件を満たすのは、JRの高槻、阪急の高槻市・北千里、それに北大阪急行の千里中央のみである。これに「駅から徒歩圏内」という条件を加えれば、間取りを狭くしたところで賃料予算内の物件など見つかる訳もなく、必然的に兵庫県まで検索範囲を広げることになる。「須磨浦公園までは摂津国」と自身に言い聞かせつつ血眼で探し、やっと見つけた好物件は、山陽電鉄の板宿から徒歩3分の場所であった。板宿には始発電車はないが、新開地まで辛抱すれば、阪急・阪神の始発が待っている。帰りも阪神梅田から乗車すれば、姫路行きの直通特急で50分弱、乗り換えなしで帰宅が可能だ。これにしようと決め、不動産屋にアポを取ろうとしたのだが、ここで夫婦揃ってはたと、また一つ、重要なことに思いを致す。二人とも「朝が弱い」のだ。特に、低血圧の重篤患者である家人が今より1時間近くも早起きせねばならぬなどあってはならぬことで、「これはあかんわ」ということで、居住地選びは白紙に戻る。
 
 北摂会会長としては断腸の思いであったが、「大和川までは決して越えまい」という妥協の下、苦渋の決断で淀川を渡る。不動産屋に駆け込み、弁天町、森ノ宮、緑橋、文の里、出戸、長原、西田辺、長居等々、あれこれ候補を出してもらっては、ああでもないこうでもないと踏ん切りがつかない。そうしている中で行き着いたのが、大阪港なのであった。地下鉄は始発の次の駅だから何とか着席通勤はできるだろうし、私の勤務先である本町までは5駅で、今と変わらない。家人の勤務先は梅田であるから、本町での乗り換えに少々不服を唱えたが、四つ橋線なら比較的空いているだろうよと宥めて、漸く新居の決定に至ったのである。
 
 あれこれと物件を見繕ってくれた不動産屋さんだったが、今回の紆余曲折の中で、そこの店長代理のIさんの、親切で親身な対応には、心から感謝したいと思っている。大阪港なんて考えもしなかったところだが、Iさんがこの物件を出してくれなかったら、今頃路頭に迷っていたことだろう。本当に有り難かった。
 
 正直に言うと、「不動産屋」という職業には、ちょっとした偏見を持っていた。前にもどこかで書いたかもしれないが、大学進学で一人暮らしを始めるときに飛び込んだ不動産屋の印象が、今もなお焼き付いているのだ。
 
 ネットもまだない時代、物件探しの第一歩は住宅情報誌である。浪人の禁欲生活からやっと解放された私は、春から始まる一人暮らしに胸を膨らませつつ、真田広之が表紙を飾る某誌を購入した。当時の真田広之と言えば、野島伸司脚本の伝説のドラマ、『高校教師』で一躍名を上げた頃だったが、「あの真田広之が広告塔である不動産会社に間違いはない」という、今にして思えば頓珍漢の極みのような発想を以て、西中島南方の不動産屋に飛び込んだ。ところが、出てきた店員の、リーゼントに剃り込みを入れ、紫のダブルスーツに身を包んだその姿は、どう見てもヤクザなのである。まだバブル景気の余韻が残る時代だったから、時が時なれば、といったところであろうが、「この物件を見せてほしいのですが」と言ったら、巻き舌で「ああ、それなら3分前に決まりましたわ」とにべもない。随行してくれた父は、仕事柄、常日頃そういう手合いと対峙しているから、凄ませたらこちらの方が二枚も三枚も上手であり、おかげで変な物件を掴まされることはなかったけれども、「結婚したら、不動産屋の仲介がない、公団のマンションとかがええよなあ」などと呆けたことを、その時は考えてしまったのである。
 
 不動産業の業界全体が変わったのか、それとも、あの西中島南方の不動産屋だけが特殊だったのかはわからないが、今回、飛び込みでやってきた客を邪険に扱うこともなく、あれこれしょうもない質問を畳み掛ける私に懇切丁寧に説明してくれ、契約の段になって書類の不備があったにも関わらず柔軟に対応してもらったおかげで、こうして昨日から新しい生活を始めることができた。
 
 短い期間の限られた休みでちょっとずつ進めた引っ越し準備。追い込みであるこの1週間は、仕事が忙しいのもあってなかなかに大変だったが、まだ目に馴染まぬ地下鉄中央線の車窓をぼんやり眺めながら、これから始まるここでの暮らしに、ゆっくりと思いを馳せてゆきたい。部屋にはまだダンボールが山積みであるが。
 
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