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『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 2008年の正月に始めた拙ブログも、途中、3年ほど放置したこともあったが、漸く100回を迎えることができた。私が拙文を認(したた)めるに際して範とした方のブログがあるのだが、この方は1997年に開始され、2005年に368回を以て擱筆された。そこまで続けられるかどうかは分からないけれども、まずは「100回」を目標としてみた。週に1本というペースを確立し、そのペースで行けば、2014年の秋くらいに100回に到達できるという算段だったが、これで生計を立てている訳でなし、誰かから次回を心待ちにするファンレターが届く訳でなし、徒然の慰みに書き散らしているだけの駄文であるから、これだけの歳月を要してしまうのは宜なる話である。それでもご愛読いただいている奇特な方々の存在こそが、筆を執ることを続けられるエネルギーなのであり、心から感謝を申し上げる次第である。
 
 それにしても、登山に喩えるならば、頂上が果てしない彼方にあるときは、いつ心が折れるとも知れないのに、そこに手が届きそうなほどに距離を縮めてくれば、何とか奮起できるものであるが、「100」というのは、そうした山の頂のようなものであり、やはりそれだけの節目なのである。換言すれば、「現実的に何とか手の届きそうな、我々にとっての最大の数字」が、「100」なのかもしれない。実際には千円札や一万円札を日常生活では扱うのだが、例えば、その値段を1円玉に両替した物理的な量が想像できるかと言えば、そうではあるまい。人類にとって「唯一の永遠」である時間の世界でも、100年を1世紀とする単位はあれども、それ以上は存在しないが、これも、人間が生き永らえられる限界が、およそ100年ということなのだろうし、実際、そうである。
 
 そう言えば小学校のとき、『全国こども電話相談室』というラジオ番組があり、ここに「無量大数という数の単位が最も大きいらしいが、それより大きな数字はどうやって表すのか」という質問を寄せたことがある。ただし、夜も眠れぬほど真剣にそのことを思い悩んだ訳ではなく、「電話のお姉さん」の二階堂杏子と話がしたい、そしてOAで自分の声が流れるかもしれないというミーハーな理由で掛けただけの電話であった。電話こそつながったものの、放送されない別のお姉さん(というより声質は明らかにお母さん)が電話を取り、回答者も永六輔や無着成恭といった錚々たる人ではなく、恐らく「くだらない質問」の担当として控えている人が如何にも無機的に答えただけであった。尤も、もともとは級友との戯れをきっかけに掛けてみた電話だったし、その日にやっていたプレゼント企画には当選し、番組の最後で私の名前がお姉さんに読み上げられ、後日、お姉さんの直筆メッセージが添えられた番組特製のトレーナーが届いたから、本懐を遂げた点で十分なのだが、件(くだん)の質問に対する回答は、「実際の生活でそこまで大きな数を扱うことはないから、そんなことは考えなくてよろしい」という、何とも腑に落ちぬ内容であった。千や万という数字は、我々人間が考えるべきでない数量なのでは、とさえ思われる。
 
 歌謡曲に目を向けたとき、これもまた、100を超える大きな数字を扱うものがなかなか想起できない。私の知る限りで最大の数量を扱ったものは、THE ALFEEの『100億のLove Story』と、田原俊彦の『100億年の恋人』くらいであるが、前者は、歌詞を見ても「100億」である必然性がどこにも見出せないし、後者では「100億年の恋人 ずっと君を探してた 100億年の恋人 もう 君を離さない」などと歌っているが、探すのに100億年、交際に100億年、都合200億年もかけて何をするというのだろうか。軽々しく破格の数量を口にしてはいけないと思うのだ。その点、幼き日から愛唱してきた歌の数々を回顧すれば、「数字の1はなあに 工場の煙突」と、折り目正しく「1」から始め、天辺は「一年生になったら 友だち100人できるかな」までである。やはり100が最大なのだ。
 
 さて、自身が子どもの時に好きだった芸能人は、何といっても山口百恵である。毎日、幼稚園から帰った後、京阪電車の牧野駅に赴き、「今日こそは百恵ちゃんが来てくれる」と待ち焦がれては、日の沈む頃に母親が怒りながら迎えに来て、肩を落としつつ家路に着いたものである。年端もゆかぬ私は、「大きくなったら百恵ちゃんと結婚するねん」と日々公言していたのだが、小学校への進学直前、物の分別がつくようになった年齢であっても、愛しの百恵ちゃんが三浦友和に奪われるショックは計り知れなかった。それほどまでに百恵に心酔していた私には、到底納得できぬことが一つあった。幼稚園に「千恵」という名の子がいたのであるが、「百恵ちゃんが100に甘んじているのに、こいつが1000を名乗るとは何事ぞ」というものである。甚だしい言いがかりであり、名字すらも忘れたその千恵ちゃんとの邂逅が叶うなら是非とも謝罪したいのだが、自分の中でその溜飲を下げることができたのは、高校で漢文を学び、「百も千も『途轍もなく大きな数』の意であって、具体的な数量は問題でない」ということを知ったときである。なれば「百恵」は“最大級の恵”ということで問題はなく、私の中で「百恵伝説」は穢されることなく今も生き続けている。
 
 だらだらと「100」にまつわるあれこれを書き散らしたが、拙ブログも次の「100回」を目指して、牛の歩みかもしれないが、ぼちぼちと続けてゆきたい。
 
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 2016年1月1日午前0時、タバコをやめた。「強い決意を持って、禁煙など断じてしない」と公言していたにも関わらず、である。「やめた」とかな書きにしたのは、「止めた」で表現は合っているのだろうが、心情的には「辞めた」という気もするからである。禁煙と言うより「卒煙」と記した方がしっくりくる。それにしても、およそ四半世紀に亙って続けてきた生活習慣を、急に変えることができるのか。1月の中旬には大きな仕事を抱えていたので、せめてそれが終わってからではダメか――などと家人に泣きついてみたが、「あかん」と一蹴されて終わった。そう、この「卒煙」は、家人の強い命令の下に遂行されたものなのである。
 
 もともと家人は嫌煙者であり、自宅における喫煙場所は須らく指定されていた。そして、実家の義父も喫煙者であったが、同様にリビング内での喫煙は禁じられていた。「禁煙ファシスト」のレベルでの過激派ではないものの、それでも「タバコと酒に溺れる人間を、私は心から軽蔑する」と言って憚らなかったから、今回遂に発布された禁煙令には抗うべくもなかったのだが、背景にはもう少し深いものがあったのだ。
 
 家人と付き合い始め、向こうの両親に紹介してもらったのは既に10年も前の話である。仕事中に届いた「今日、親に会ってもらえる?」という召喚メールに応じて、ある日突然出頭することになった。家人は厳格に育てられた一人娘であるから、世間一般とはかけ離れた特殊な生業に身を置く私を許さないとでも言われるのだろうか。しかし取り敢えず、今日は仕事でスーツを着ていたから、格好だけなら何とかなるだろう。けれども手土産など買っていく時間的余裕はないが手ぶらは具合が悪かろうしどうしたものか……などと逡巡しながら、会社を出た。
 
 緊張に手を震わせながら駅に降り立つと、改札口の向こうに3人が立っていた。予想通りの強面の父親……なのだが、如何にもラフなフリース姿、しかも右手にはなぜかスポーツ新聞が握られている。別の意味で、ちょっと怖くなった。近くの居酒屋に入り、身を硬くして通り一遍の挨拶を終えると、「まあ、彼女の親に会うちゅうのは緊張するもんやわな、俺もそうやったわ。そやけどそう硬くならんと、上着脱ぎいな」と声を掛けてくれた。言われるがままに脱ぐと、Yシャツの胸ポケットを見て、「ん? 何や、タバコ吸うんか? 落ち着くやろから遠慮せんと吸いいな。俺も吸うわ。ほれ」と、ライターの火を向けてくれた。「酒は飲むの?」「飲みます」「何を飲むん?」「何でも飲みますが、日本酒が一番好きです」「ほっほーん。いや俺もな、仕事柄地方への出張が多くてな、そこで手に入れた地酒を集めて、家の一室を貯蔵庫にして並べてるねん」と、そんなやり取りが続き、「酒飲みの喫煙者」というだけで気に入ってもらえた。
 
 以後、結婚するまでも、してからも、女2人に「酔っ払いがタバコ蒸しながら管を巻いて、ホンマにウザいわ」と罵られつつ、ちょくちょく飲みに連れて行ってもらったり、時には「家の一室を貯蔵庫にして並べてる」地酒コレクションからセレクトされた一品を我が家に持ってきてもらったりもして、「酒とタバコ」を通じた誼は続いた。あるとき、酒を酌み交わしながら、「こんな煩い女どもは放っといて、あんたのお父さんも一緒に、男3人で旅行に行こうや」と義父が言い出した。「いいですねぇ。どこに行きたいですか?」と問うたら、「左に沢と書く地名があんねんけど、読まれへんやろ?」と、質問で返された。しかし地図マニアの私が知らぬ訳はなく、「ああ、山形の『あてらざわ』ですね」と答えたら、いたく感動して、「絶対行こう、こいつらなんか放っといて、行こう」と、酩酊状態でありながら嬉しそうに語った。
 
 ところが昨秋、義父は病に倒れた。胃癌であった。胃を全摘出する手術を受けることになったが、「決して見舞いになど来ないように」ときつく言われた。義母によれば、「無様な姿を、どうしても見られたくない」ということらしい。病院に駆け付けた家人は、帰宅してくるや、「タバコをやめて」と言った。「お父さんがああなったのは、ヘビースモーカーやったからや。お願いやから、タバコをやめて。年末まで待つから」と訴えてきた。痛切な訴えに折れる形で、年末での禁煙、いや、卒煙を決意することになった。その後、「頑張って治すから、完治したら、左沢へ行こう」との義父のメッセージが、メールで届いた。
 
 それから暫く経ったある日、たまたま点けていたテレビで、『六角精児の呑み鉄本線・日本旅』という番組をやっていた。奥羽本線の赤湯駅を起点に、長井市を経て、西置賜郡白鷹町の荒砥駅までを結ぶ、山形鉄道のフラワー長井線を“呑み鉄”する旅だったのだが、長閑な車窓、降り立つ街の風景、地元の居酒屋で酒と料理に舌鼓を打つ姿……私の旅情をここまで掻き立ててくれる旅番組に邂逅したことがなく、永劫に続けてほしいシリーズである。そして、六角精児が旅をした「長井線」は、義父が行きたがっている「左沢線」とは違う路線であるけれども、奥羽本線から分かれるローカル線を“呑み鉄”する旅への思いは募るばかりであった。
 
 そして家人との約束通り、年が改まるのを機として、タバコをぴたっとやめた。禁煙外来に通い、薬に頼らないとやめられないと思ったのだが、仕事が立て込むと多少、吸いたくなるときはあるものの、やってみれば何てことのないものである。「1月中旬の大きな仕事」も、タバコに逃げることなく、乗り切ることができた。
 
 そして、その「大きな仕事」が落ち着いた翌日の朝、義父は58歳の若さで逝った。結局、手術の報せを聞いてから、一度も顔を合わせることがないままになってしまった。棺の中の顔はとても安らかで、義母によれば、全く苦しむことなく臨終を迎えたそうだが、癌は、ステージⅣまで進行していたことをこのとき初めて知った。家人が横から、「この人、タバコやめてんで」と言ったら、義母は「お父さん、死ぬ直前まで、隠れてタバコ吸ってたわ。タバコはあかんよ……」と力なく言った。決して禁煙しないことを決意していた私は、二度とタバコを口にしないことを、棺の前で誓った。
 
 葬儀が終わり、義母を実家まで車で送っていった。「もう、飲む人おれへんから、持って帰って」と義母から渡されたのは、秋田の地酒「まんさくの花」だった。生前、義父が「2015年一押しの地酒」と激賞し、取り寄せたものらしい。義父のことに、そして一緒に行けなかった東北の地に思いを馳せつつ、しみじみと啜りながら、故人の供養とした。タバコも吸わないで、ただひたすらに啜った。
 
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 年賀状の発売が、既に10月末から始まっていたということを知らなかった。例年は11月に入ってからの発売開始だったように記憶している。昨今では年賀状を出す人も年々減少していると聞くが、早くから売り始めて話題化を図り、発売枚数を少しでも伸ばそうとする戦略なのであろうか。だとすれば、早くから売り始めたことすら知らなかった人間がここに1名いる訳であって、もっと派手に訴求を図るべきではないのだろうかと余計な心配をしてしまう。年賀はがきの販売ノルマに苦しむ郵便局員たちは自爆営業に走り、金券ショップに売り捌く際の差額は自腹というのだから、かかる憂慮は尚更である。
 
 それはさて措き、年賀状というものは、出す(書く)のは面倒臭いけれども、もらうのは嬉しいという、“自分勝手の王道”の代表格ではないかと考える私は、この数年、もらった人にだけ出すというスタイルを取っている。流石に目上の人には、自分から差し出し、しかも元旦に届くように出そうとは思うのだが、年末大晦日まで仕事に追われるという言い訳の下、最近では相手の格の上下に関わらず元旦の投函である。非礼の段をご寛恕願いたいと思うが、それでも平均すれば120枚ほど頂戴するので、ありがたさをしみじみ噛み締めながら、届いた一枚一枚に目を通している。
 
 さて、その約120枚の年賀状のほとんどは、お年玉くじ付きなのであるが、どうした訳か、最下等すら1枚も当たらないということが、かれこれもう10年くらい続いている。郵便局のWEBサイトを見ると、2016年のお年玉商品の当籤確率は、1等の「旅行・家電など・現金(10万円)」が100万本に1本、2等の「ふるさと小包など」が1万本に1本、3等の「お年玉切手シート」が100本に2本とある。確率どおりであれば、切手シートの2~3枚くらいは当たって然るべきというのに、これは一体何の罰であろうか。かてて加えて口惜しきは、自分が出した年賀はがきが「当たりました」という知らせをよく受けることである。
 
 正月早々、卦体糞の悪い話であるが、我が人生を回顧すれば、どうやら「くじ運」にはとことん恵まれぬようである。
 
 昔ほどあまり見なくなったような気がするが、アイスキャンディーの棒に当たりくじの付いたものがある。あれに当たった回数は、42年もの間生きていて、片手で数えるほどである。当たりつきアイスの代表格である『ガリガリ君』を製造販売している赤城乳業のWEBサイトによると、「ガリガリ君の当りの確率は、景表法という法律に則って、公正に調節致しております。具体的な確率については、申し上げられませんが、その範囲内で還元させて頂いております(原文のママ)」と記載がある。景表法とは「不当景品類及び不当表示防止法」のことであるが、消費者庁のWEBサイトで確認すると、景品の当籤確率は「懸賞に係る売上予定総額の2%」以内に設定することになっているらしい。つまり、当たりの確率は最大50本に1本ということになる。生を享けてから今日までに当たりつきアイスを何本食したかの確かな記憶はないが、仮に月に1本ずつ食べ続けたとするなら、これまでにおよそ500本は口にした計算となり、当たった本数は片手では済まぬはず、小学校の時分ならもっと頻繁に食べたはずだからそれ以上に相違ない。当たりつきの飲料の自動販売機で当たった例もほとんどなく、確率論だけで言えば、「人並み」を著しく下回る運のなさなのだ。
 
 そんな不運ぶりであるから、偶さかに当籤の幸運に浴すると、それはもう、盆と正月が一度に来たどころの騒ぎではないのだが、これにはこれで、恨めしい事態が待ち受けている。
 
 子どもの頃、当時日本水産から発売されていた『ドラえもんソーセージ』という魚肉ソーセージのくじに当たったことがある。当たるとタケコプターが貰えるという代物であるが、ねだったものを何でも買ってもらえるような甘い家庭ではなかったから、まず、これを手にすること自体が難関であった。それだけに、割と早い段階で当たりが出たときには狂喜乱舞した。その当たりくじを発売元に送ると、程なくして景品が届いた。これをガムテープで頭に貼り付け、皆の前で滑り台の上から飛んでみた。しかし、当たり前であるがそのまま地面に墜落し負傷した。のみならず、タケコプターを頭から取り外す際、結構な数の頭髪が抜け、断末魔の叫びを上げた。折角の当籤というのに、えらい目に遭ったものである。
 
 懸賞応募もまあ当たらない。「厳正なる抽選の上当選者を決定します」「当選者の発表は賞品の発送をもって代えさせていただきます」とは懸賞の定型句である。厳正に抽選してもらえるよう、アンケートには丁重に回答し、書道に臨むような気持ちで宛名を書いて投函するのにも拘らず、である。懸賞生活なんてものを営んでいる人がいるらしいが、どうやったらそんなことが可能になるのだろうか。数打ちゃ当たるという言葉があるが、こちとら数を打っても当たらないものは当たらないのだ。それでも一度だけ、文藝春秋社の献本に当たったことがある。しかし応募したことすら忘れていた私は、発売日にその本を購入して、早々に読了した。そして読了したその日に、「おめでとうございます!」と、当籤した本が送られてきた。347ページに及ぶ長編が2冊、仲良く書棚に並んでいるのを呆然と眺めるばかりであった。
 
 それほど運のない男であるから、ギャンブルなどは全くの埒外である。競馬場にも競輪場にも競艇場にも絶対に近寄らない。大学時代にえらい目に遭って以来、麻雀は「やったことがない」ことにしている。尤も、「相手の手を読む」能力が絶望的に欠損しているので、運の以前に、将棋も囲碁もオセロもトランプも何もかもダメである。
 
 そんな次第にも拘らず、やはり大学時代の一時期、パチンコを嗜んでいたことがある。しかるに勝ったのは一度だけ、しかも金額は6000円である。やっぱりダメなのだ。ところが幼稚園の頃、日曜日に父親のパチンコに付いていって、父の膝に乗って打たせてもらったことがある。18歳未満は入店禁止のはずだが、子どもを車の中に放置して熱死させる鬼親ではなかったから、仕方なく一緒に連れて入った。父が打っているのを見て「ボクもやりたい!」とせがんで興じてみたところ、これが大フィーバー。当時のパチンコ台は、今と違ってレバーを操作して一発ずつ打つスタイルであったが、幼年時代の私は、絶妙な力加減で玉を打ち、確実に入賞口へ玉を導いてみせた。出るわ出るわの大騒ぎ、周りのおっさん連中から喝采を浴びたという。戦利品のお菓子を大量に持ち帰り、母を驚かせたが、私の親指にぷっくり水脹れができていたのにもっと驚いたと言う。
 
 今にして思えば、この時に人生の運気を全て使い果たしてしまったのかもしれない。そろそろ年末ジャンボ宝くじの時期であるが、買うか買うまいかと逡巡する日々である。
 
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 先日、料理研究家の岸朝子氏が、91歳で死去した。氏の名を広く知らしめたのは、申すまでもなく、テレビ番組『料理の鉄人』であった。番組が終了して既に16年が経過するので、そんな番組があったことを知らないという若い人も多いだろうが、それでも逝去に際しての報道で、初代の鉄人3人からのコメントが寄せられるあたりに、今でも、この番組での姿こそが氏の印象として人々の記憶に刻まれていることが伺える。中でも、「おいしゅうございました」は、氏の人となりを表す決め台詞として夙に知られる。
 
 そんなことを考えながら、「ございます」とは何と美しい表現であろうかと、今更ながらに思うのである。英語では何であってもbe動詞で済まされるのだが、日本語は「だ」「です」「でございます」と、丁重さの段階に応じて助動詞にさえ使い分けがなされる。これが、外国人が日本語を学習するときに難儀する点の一つであるという話も聞いたことがあるが、「言霊」という語を引き合いに出すまでもなく、日本語は、語感の微妙なニュアンスや、話者の心の機微が相手にどう伝わるかを大切にする、優れた言語だと思うのだ。
 
 飛行機の機内アナウンスは「~ございます」調が基本である。あれを聴くだけで、普通席に乗っていてもラグジュアリーな気持ちに浸れるのだから、言霊のパワーは大したものだと実感する。ところが過日、沖縄に行ったときのこと。伊丹から搭乗したJALのCAは、事もあろうに「この飛行機は、日本航空2081便、沖縄・那覇空港行きです」「この便の機長は△△、私は客室を担当いたします○○です」と、2度までも「~です」とアナウンスしたのである。他の乗客の誰も、そんなことには反応しないが、私は酷く落胆し、そして狼狽した。あるべきものが突然失われたときの不安や動揺にも似た感情に苛まれながら、2時間のフライトを耐え忍んだのだが、帰路のCAは「~ございます」と言ってくれたので胸を撫ぜ下ろした。
 
 ここまで来ると、私にとって「ございます」は、最早発作時の頓服のようなものであるが、「こういうシチュエーションなら『ございます』と言うだろう」とか、「この人なら当然『ございます』と言ってくれるはずだ」といった期待があって、それが期待どおりであれば安心するし、そうでなければ座りの悪い心持ちに駆られるのである。そして昨今、この「期待」を裏切るシーンが、静かに増えつつあるような気がする。
 
 例えば、かつてはどの百貨店にもいたエレベーターガール。「上へ参ります」と言いながら腕を直角に挙げる所作は実に美しく、「3階、婦人服のフロアでございます」など案内するそのエレガントな姿に、憧憬を覚え、「エレベーターガールごっこ」に興じた子どもは少なくあるまい。美しい所作に、「ございます」の上品な発声。それは百貨店の華であり、ステータスでもあったはずである。しかし、いつしかほとんどの百貨店からその姿を消し、機械的な自動音声が「3階です」と無機質に語るのみである。
 
 電話応対も、昔は、一般家庭でさえ「ございます」が主流だったように記憶する。小学校の頃、友達の家に電話を掛けたら、出たのが男の子であっても「はい、○○でございます」と言う家庭が多かった。そのように躾けられていたのだろうし、そのように電話を出るような家庭の子は、どんなにやんちゃくれであっても、やっぱり“ええとこの子”と映ったものである。携帯電話の普及に伴って、固定電話を持たない家庭が増えつつあることが背景にあるのか、はたまたセールス電話への防御であるのか、「○○でございます」が消えるどころか、自らを名乗ることすらなく、「はい」や「もしもし」が跋扈している。
 
 なぜ「ございます」がこうして廃れていったのだろうか。慇懃が過ぎるという意見もあるだろうし、回りくどいとかまどろっこしいという考え方もあるだろう。前述したように、「上品さ」ということと不可分の表現であるから、逆にそれが鼻持ちならぬと感じる向きがあるのかもしれない。一般家庭はさて措き、企業人としての物言いとなるとブランドイメージに関わる部分もあるから、意図して「ございます」から「です」への転換を図っていることも考えられる。しかし、そうであるなら、「ございます」にも、「上品さを醸し出す」ということ以上の意図があると考えても、おかしくないのではないだろうか。
 
 関東はどうなのか知らないが、かつての関西の私鉄のアナウンスの文末は、軒並み「~でございます」だった。大阪市営地下鉄でも同様で、「毎度ご乗車ありがとうございます。この列車は、なんば・天王寺方面、あびこ行きでございます。次は、淀屋橋、淀屋橋、市役所前。京阪線は、お乗り換えでございます」とか、「中津、中津、この列車は、ここまででございます。新大阪・千里中央方面へお越しの方は、次の列車をお待ち願います」といったアナウンスは、今でも諳んじて覚えている。しかし、1992年に英語のアナウンスが追加された際に、「~です」に変更され、その後、私鉄各社も追従するかのように、「~です」に転換してゆく。
 
 天下の台所たる大阪では古来、商売人は、いわゆる大阪弁とは一線を画す「船場言葉」を用いてきた。Wikipediaにはその説明に、「できる限り丁寧な表現を用いるように努め、一般の大阪市民が多用した『おます』や『だす』よりも、『ござります』や『ごわす・ごあす』を多用した」とある。船場言葉自体は廃れてしまったけれども、「~ございます」のアナウンスは、お客を大切にし、懇篤にもてなさんとする商売人の精神が、今なお息づいていることの表れなのかもしれない――何の根拠もない想像ではあるが、そう思う。
 
 聞けばやはり、「語尾が不明瞭である」「放送がくどくて煩い」などの乗客の声に応えての変更だったそうである。時代の流れと言えばそれまでであろうが、「ございます」に込められた商売人の精神がお客に受け入れられなくなったというのは、何とも皮肉な話ではあるまいか。
 
 勤務先には明確な電話応対のマニュアルがある訳ではなく、社員によって「です」派と「ございます」派に分かれているが、私は船場の商売人の精神を勝手に受け継ぎ、今日も「ございます」を墨守するのである。
 
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 大阪港に引っ越してきて、2度目の夏を迎えた。一昨日から私も休暇だが、今日は終わらぬ仕事を片付けに、誰もいない会社に出向いたのであるが、朝から海遊館への観光客が地下鉄大阪港駅に降り立ち、その大群を掻き分けながら都心向きの電車に乗り込む日々であるから、出勤前から疲弊している。
 
 しかし、疲弊の原因は、我が住まいにもあるのである。
 
 夫婦2人暮らしに広い部屋は持て余し気味ということで、1部屋を減じた物件を選んだのであるが、今の物件の1部屋はロフト式なのである。ロフトにしては十分に広く、天井も低くないのでよいのだが、暮らしてみて初めてわかったことがある。ロフトルームは、夏は猛暑、冬は極寒なのだ。室内の暖気は上昇、冷気は下降するので、冷房をかければ上層部の温度は上がる一方、暖房をかければ下層部の温度は下がる一方なのである。暑さに酷く弱く、寒さに酷く弱い私にとって、これは筆舌に尽くし難き辛さであり、思慮の足らぬままにこの物件に決めたことを、今更ながらに恨めしく思う。
 
 独身時代のワンルームマンションは、エアコンが備え付けられていたのだが、これがある夏に故障し、ただの送風機と化したことがあった。備え付けであるからオーナーに言って修理をしてもらえばよかったのだけれども、寝に帰るだけのために存在した自室はカオスの様相を呈し、およそ他人を招き入れられる状態になく、家人とは結婚までに約5年間付き合ったが、この者さえ一度として家に上げたことがない。仕方がないので、ソフトタイプの氷枕を大量買いしてベッドに敷き詰め、扇風機2台を全裸の体に当てて熱帯夜を凌いだ。それでも辛抱ならぬ夜は、格安のビジネスホテルに寝床を求めたこともある。
 
 結婚して新居に移り、一晩中冷房をかけて安眠を享受できる幸せを噛み締めていたから、ロフトルームの灼熱地獄は悪夢の再来であり、これは何とかせねばと対策を講じることにした。
 
 ロフトルームに窓があれば、はめ込み式のエアコンを迷うことなく購入するところであるが、残念ながら、あるのは壁だけである。ネットで検索すると、サーキュレーターなるものが効果的であると書かれていた。扇風機と違って、直進性の高い風を発生させることができ、風量も強いのだとか。これによって室内の空気が循環できるから、上層と下層での温度差が均一になるらしい。これは我が家の喫緊の必需品と、早速に大型家電店に駆け込み、最強の品を所望して持ち帰った。ロフトルームの梯子の前には扇風機も置いて、万全を期した。
 
 確かに、何もしないよりはましではあったが、サーキュレーターのパワーは期待したほどではなく、また、扇風機には、なぜかタイマーをかけずとも6時間で自動停止する余計な機能が備わっていて、夜明け頃には寝汗びっしょりなのである。より強力なサーキュレーターの購入も検討したが、室内の空調如きにどれだけ散財すればよいのかと、途方に暮れるばかりであった。已んぬるかな、私はリビングに布団を敷き、そこで寝ることにした。
 
 ところが、である。階下では、今度は冬の極寒が耐えられない。実は夏場でさえも、階下では冷気が溜まって毎朝凍えているくらいなのだが、真冬は毛布2枚に羽毛布団を重ねて何とか凌げる程度である。それでも首から上はカバーできないから、寝ると余計に筋肉が凝り固まるという地団駄を踏むことになる。毎朝6時にはエアコンの暖房が入るようにセットするが、その温風が私の顔面を直撃するものだから唇は乾燥してひび割れを起こし、起床する際には口の周りが血だらけという断末魔的様相で、高が睡眠で、何故こんなに命を懸けねばならぬのだろうかと厭世的な気持ちになったのである。
 
 折角根付いてきたこの街であるから、再び渡り鳥のように棲み処を求めて旅立つことは考えていないが、しかしこの寝苦しさからだけは、一刻も早く抜け出したいと、滴る汗を拭いながら考えあぐねる夏期休暇の日々である。

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