第61回 愛の鞭(二) | 『虹のかなたに』

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たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 前回(一)で、悪いことをしたらきちんと罰を与えなければならない、世の中に子どもを出す前に、社会の正義の何たるかを教え込んでおかねばならないという話をした。その「罰」の方法にはいろいろあるが、「口で言って分からない」者にはどうしたらよいであろうか。
 
 昔、住んでいた街でちょっとした“事件”があった。自転車に乗って通行することが禁じられている商店街を、警察官の再三に亙る制止も聞かず、挑発気味に逃げようとした高校生が、白バイに追い詰められ、道路交通法違反か何かの現行犯で逮捕されたのである。この逮捕について、テレビのインタビューで“容疑者”の父親が、「きちんと注意を与えれば済むことなのに、逮捕とは職権の濫用ではないか」と激昂していたのだが、警察官は何度も制止した、つまり「注意を与え」ているのである。「口で言って分からない」から止む無く逮捕したのに一体何を言っているのかこのバカ親は、と批判が殺到したという。世論は、警察に対して「よくぞやってくれた」という方に傾いていたと記憶している。
 
 教育の現場でも、こうした「口で言っても分からない」という局面は往々にしてあるだろうし、そうしたときに最終的に行き着くのが「体罰」ということになる。児童や生徒を正しく導くために、泣きの涙で「愛の鞭」を振るうこともあるかもしれない。けれども、体罰は、学校教育法の第11条で「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と明確に禁止が規定されている。これが「学校教育において体罰はいけないこと」だとする唯一無二の根拠であって、法がそう定めている以上、如何なる正当化も成立しない。
 
 しかし、現実には体罰の問題は一向になくならない。教師自身が自らの感情をコントロールできないでやらかしてしまう事例もあるだろうがこれはもとより論外である。ただ、「教育的行為」との線引きは、実際のところ大変難しい。「体罰」の定義については長らく、『児童懲戒権の限界について』(昭和23年12月22日付法務庁法務調査意見長官回答)に依拠してきたが、平成19年2月5日に文部科学省から出された通知『問題行動を起こす児童生徒に対する指導について』では、「教員等が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある」「個々の懲戒が体罰に当たるか否かは、単に、懲戒を受けた児童生徒や保護者の主観的な言動により判断されるのではなく、……諸条件を客観的に考慮して判断されるべきであり、特に児童生徒一人一人の状況に配慮を尽くした行為であったかどうか等の観点が重要」と示された。また、先般の大阪市立の某高校での、体罰に起因する生徒の自殺事件を受け、平成23年3月13日に文部科学省初等中等教育局長と、同スポーツ・青少年局長の連名で出された『体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について』でもほぼ同じようなことが記されている。結局ケースバイケースということのようである。
 
 「懲戒を受けた児童生徒や保護者の主観的な言動により判断されるのではなく」とあるが、実際には“受け取る側の認識”が多分に事の重大性を左右するところもあって、指一本触れただけで体罰だのセクハラだのと騒がれる場合もあれば、例の事件では、体罰を日常的に行っていたとされる教師に対して、1,000名を超える署名を添えた、処分軽減の嘆願書も府教委に提出されている。それを異常だと糾弾するのは第三者の考えであって、当の生徒たちが「人として大切なことを教えてくれた」「先生のおかげで社会でも通用できる強い人間になった」と言うのだから、その意味では「教育的行為」だったと言えよう。ただし注意しなければならないのは、それが必ずしも「生徒の総意」ではないかもしれない点にある。現に、件の生徒は自らの命を断っているのだ。
 
 ところで、体罰に絡んで思い出すエピソードがある。私の通ったのは全国版の新聞に載るほどの荒廃した中学校で、創立記念日の日、校長先生が、「この中学校へ転勤と言われると、『嫌です』と拒む先生も多いんです。だから、この学校におられる先生方は、皆素晴らしい人たちばかりなんです」と涙ながらに語っていたのを覚えている。事実、横行する校内暴力に対して、先生たちは手を後ろに組んで、決して応戦しようとしなかった。中3の学年末考査の日には警察や地元の人たちが物々しく警備する中、じっとしていられないヤンキーたちを、担任外の先生が“ドライブ”に連れて行って、校内の安寧を保つようなことまでやっていた。あるとき、PTAの会合で、ある保護者が「口で言って分からない子には、時には手を上げる指導だって必要ではないでしょうか。それは『愛の鞭』なのですから」と発言した。すると先生はこう答えた。「子どもが『愛』と受け止めてくれなければ、それはただの暴力なんです」と。親たちはそれ以上、何も言えなかったという。
 
 例の事件を「勝利至上主義が招いた悲劇」と論評する人もいる。しかしそんなことは、直接の原因かもしれないが表層的なことであって、本質を見誤ってはいけないのだ。体罰を受けた生徒が苦悶の末、命を絶ってしまった以上、そこに「愛」はなかったと考えるのが正しく、よって結果は「教師による生徒への暴力」だったと断じる他はないのである。「“被害者”はたった一人ではないか」という乱暴な意見もあるらしいが、人数の多寡は全く問題ではないし、そんなことで人一人の死が貶められる筋合いもない。なぜなら、教育というものは本来的に、「1対多」ではなく、あくまで「1対1」の営みであるはずだからだ。
 
 冒頭で、「『口で言って分からない』者にはどうしたらよいであろうか」という疑問を呈したが、私の中にそれに対する明快な答えは情けないながら、ない。人を叱るのは本当に難しいことで、指示や命令や恫喝や追い込みや懲罰で人が動くのならこんな楽なことはないのだが、現実、そうは易々とゆかぬことは、学校教育の場のみならず、大人を相手にした社員教育の場においてさえも、誰もが痛感するところであろう。教育というものは所詮、未熟な者がもっと未熟な者に教えを施す行為である。指導者はそうした謙虚さも持ち合わせた上で力を行使しなければならないし、如何なる鞭が「愛」と理解されるのかを考えなければなるまい。無論、そうであるためには、相互理解を前提とした適切な人間関係が構築されていることは必須である。そして、文科省の言うところの「一人一人の状況に配慮を尽くした行為であったかどうか」はお題目かもしれないが、しかし本質はこの1点に尽きるのではあるまいかと、未熟者の私は実感を持って思うのである。