畜生剣法という言葉(考え方)が発せられてすでに400年 | 卍老人残日録

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-真剣道継承未完- 

剣法で一番嫌われる(リスクが多い)心身の操作は何か?

 

合気という状況に遭遇することだと、聞いたことがある。

 

三つの先しか勝ち方は無いのだけれど、いかんせん、引き分けという結果もあるというわけだ(涙)

 

引き分けで何が悪いと思う方もあるだろうが、真剣で合気となり斬りあったとき、両名はともに「倒れてしまう」お互いが勝も負けもせずその立ち合いないし居合は終了。

 

何のために斬りあったのかわけがわからない。

もちろん、上意において斬りあうとき、英信流の習いでは積極的に合気となる、初伝においてその覚悟や、身体操作、呼吸法は伝達される。

 

 

それ以外では、勝たんかなという剣法が、「夕雲流」においてことごとく退けられ、真剣勝負(戦国を経過した時点)の至極が説き明かされたことは、日本武道の飛躍的成果と思っている

 

合気は「相打ち」ではなく「相抜けと」変貌したのだ

もちろんその間には三千度不敗という実績を伴っていたと記述され、その記事を読んだ私のびっくりを想像していただきたいものだ(笑)

 

世にいう、心身の向上のため、勝負に勝つように努力を怠らないという、古い価値観が、師の夕雲と相抜けした弟子を上座に据え香を焚いて礼拝したその時論破どころか、全的に破砕されたのだと、今でも考えている。

 

 

 

勝つために技巧を凝らす、戦術を考えるなどという、現在においても当たり前の精進が「畜生剣法」に当たる? 私は記事を読んでから、自分なりに「どういうことだろう」と考えてきた。

 

 

私なりの素人考えでは、目的因(テロス)と作用因の取り違えがあるのだろうかなどと、この40年迷ってきた(笑)

 

いずれにしてもアリスト様ではない凡愚の私にはうっすらとしか理解できないのだが、スポーツでもあるまいに優勝を目指して頑張りますなどという不埒な居合者が多数の現状に何とか警鐘を鳴らしたいと蚊の鳴くように継続してきた。

 

スポーツのどこが悪いというお叱りや、反論があるだろうが、優勝劣敗の法則は日本文化にはなじまない。

 

GHQが画策したという3S政策の一つの柱にスポーツがあることは賢明な方ならすでにご存じだろう

 

それでもみんながしているというお考えなら

ます苦や、ワクワクは大方の方たちが受け入れ、いまや祖国は大変なことになっているのに気が付いてほしいものです