切羽詰まった状況にどう対処するか?
武術の大きなテーマです
命のやり取りの「現場」で興った居合は、500年かけて現代に到達しました。
現代人はほとんどが「現代文明」に教育されていますから、先人たちの奇跡とも思える動きを想像するのも難しいものだと考えています。
先人の動きが伝説となり仄聞する程度なのが押し並べての現実です。
さて、まずは癖病から語りましょう
クセ、ヤマイとは居合の世界で用いられる場合、個人的な思い込み、体の間違った使い方などをさしています。
癖とは誰にでもあるもので、緊急の対処不可能な出来事に対して「とりあえず」状況を脱するという選択をし、近道で損害少なく離脱を考える人。あるいは踏みとどまり抵抗を試みる人、だれしも本能が命ずるそのチョイスの仕方が癖となります、待ったなしの修羅場の行いです。思考の癖がついて行きます。
緊急でない場合は、ある体育系クラブで腕立てを100回する
ずるい人は、楽な方法を探る、熱心な人はなるべき効くようにするかもしれません。
楽な方法を選んだ人は楽する筋肉がついていきます
熱心な人は効く筋肉がついて行くでしょう
今度はマシンでそのようなことを行うとすれば、均一な筋肉がついて行きます。
ところで、その筋肉はなんのために必要だろうか?
無目的につけた筋肉は、身体の癖という副産物を生んでいる
作用反作用という言葉をご存知でしょうが、あれです。
楽の方の筋肉、辛い方の筋肉。いずれも身体にとって慣れた動き、使い方ということです。
伝統的な業という観点からすると、すこし違う鍛錬ではないか?
癖のある個人的な身体の使い方が伝統的な業とイコールにはならない。
しかも熱心に刷り込まれた筋肉は強固な「癖」として根幹にまで染み込んでいる。
身も蓋もない言い方をすれば
楽筋肉は ものは安い方がいい
辛い筋肉は ものは高いほうが素晴らしい
いやあ~現代の自由主義経済の写し鏡ですね。
どちらもその人にとっては正解かもしれませんが、武道にはそんな風にトレーニングしてきた歴史はない(笑)
昔から私は、考えない腕立てを百回すれば百回分弱くなると言ってきました。
極論すればスポーツの分野の話ではないかと思います
たおやかな女性でも、子供でも可能な武道の具現化において、横道ですよね、壮大な回り道ではないでしょうか。
無自覚な癖は誰にでもあります、それを増強するのはいかがなものかと思っています。
これは、太い竹を切ったり、見事な早業を見せたりすることを目的とした方々も入り込む陥穽です。
大きな竹を切るために ことさら反動を使い、切り抜けたあとも姿勢を崩し、これで切り合いは無理ですやん!。かねがねなんのためにそんなことをやっているのか?と不思議でしたが、
今まで述べたように癖を刷り込む作業で満足しているのだと思うようになりました。しんどかったがご褒美です。
そんな人は武道の先生にはなれません、なぜならばそんなことを教えるカリキュラムなど不要で、全般に渡る理念や伝統においての身体運用を後世に伝えるのが先生の役割だからです。もちろん、スポーツ根性論であっても支障はありませんが、日本武道とは無関係でいてほしいと思っています、もちろん私の個人的感想でしかありませんが・・・
専門化すると汎用性はなくなります。
剣道家はマラソンが苦手、合気道家は走り幅跳びは遠慮したい、かも知れない
そこまで極端に喩えなくとも、武芸十八般に通用するような可動性を追求したいものです。現代において自分より1級上の真剣を持った相手と斬り合うことなどあり得ませんからネ。あり得ないからこそ肉薄してみたいものでしょう(笑)
先人の高みを富士に例えると私は豆にもならない背丈である
と念じております。
同じような言葉を聞いたことがあります
「仏教の高みにたどり着くと神道の凄さがわかる」
仏教という教え(宗教)、教義のない神道(非宗教) 私のような凡俗にはどちらもすごいもののように思えますけど。