僕は常々、「ペインティング」というのは本質的にイマジネーティブな作業だけど、「ドローイング」というのはどうも難しいな、と感じています。
難しいというのはつまり、ドローイング、すなわち、何かを具体的に描こうとする行為とは、文字通り、何らかの明白なフォルムを〝具象化″しなければ成り立たないわけで、この際、どうしても描き手の意識は「意味」に向かい易く、大抵、形骸化した陳腐な方向に収束してしまうわけです。この呪縛から解き放たれることがどうも、並の描き手には難しいと思う。
もっと解り易く言えば、例えば、僕が鉛筆で何となくラインを描いたとする。すると、例えばそれが樹の形らしきものに見えてきて、やがて、人間の脳の習性で、直ぐに、「樹」=「緑」=「自然」=「安らぎ」=「母なるもの」みたいな、安易にして詰まらな過ぎる連想ゲームが始まってしまう。矮小化された共通認識としての「意味」に着地してしまうわけです。こうなるともう、「絵」は「絵」としての意義をスルーされ、絵解きのための「記号」でしかなくなってしまう。つまりこの場合、「絵」は目的ではなく、ある、概念に導くための使役として利用されているわけで、著しいのは、イラストや漫画の世界で、形骸化され、ステレオタイプ化された(どう見ても)記号群が、十把一絡げに、「絵」などと称されていることです。
つまり、「具象的フォルム」というものには常にこうした、表現の独創を阻む罠がある。
それともう一つには、今日的に僕らが、一体、何を描けば良いのか?という問題。
僕らの視覚認識世界は既に24時間、365日、メディアによって浸され過ぎています。こうした、既に誰かによって構築され尽くしたイメージ環境にあって、尚且つ今日的で、先述のような「記号化」に陥らない、純然たる「絵画」を指向することとはどういうことでしょう?
ひとつ言えることは、もはや私には、描かなければならないものなど何一つ無い、ということです。しかしながら、何かしら描いてみたらどうか?という、快楽の残り香のようなものが蘇って来て、無性に逡巡させられることがある。
本来、「描く必要の無い人間」と「描く夢」を取り持つ、(尚且つ)陳腐化され得ないスタイル。果たしてそんなものが在り得るだろうか?
実は先日、そんな可能性の予感を感じたある展覧会があって、早速、足を運んでみた。それは、ミヒャエル・ボレマンス個展『アドバンテージ』(原美術館)。
ミヒャエル・ボレマンスというのはベルギーの画家で、これまで日本で余り紹介されたことのない(らしい)、現代美術系の作家です。
彼はヨーロッパという土地柄からか、簡潔にして非常に卓抜した油彩技法を駆使する作家ですが、同時に、元々写真を撮っていた人らしく、アメリカ現代美術風の、あの、写真的リアリズムに裏打ちされた、〝死臭″にも似た客観性をも獲得している、とても魅惑的な調和を備えた作家です。
現代美術としては何処か懐かしい感じの、素朴な実験性を湛えているものの、しかしその、外連味(けれんみ)無い、クールな挑発性は、決して古さを感じさせない、あたかも〝過不足ないもの″として孤高に起立しているようで、これはどちらかというと、玄人受けする手の表現だと感じました。
ところで、ボレマンスの作品において最も特筆すべきことは、確固たる具象絵画でありながら、〝絵画以外の何物か″で在り得ること、つまり先述したような使役化、記号化を一切拒絶し、巧妙に「目的」を撹乱している点にあります。いわばボレマンスの作品は、どれも趣旨が不明瞭で、鑑賞者が安易な「意味」に到達できない仕掛けになっている。そしてそれが故、結果、絵画そのものを楽しまざるを得ない構造を編み出しているわけです。
但し、そう書くと、あたかもそれそのものがコンセプチュアルな目論見のようにも聞こえますが、決してそんなことはない。おそらくはそんな謎かけ自体もボレマンスの「目的」にはなり得ず、結局、彼が望むところというのは、彼の表現が、只唯一、「絵画」そのもので在り得ること、文字通り、この一点だけが意義の全てであるように見えます。
加えて言うと、「意味」に誘わない絵画、ということの真意は、実際に、人間の脳の「意味化のメカニズム」に抵抗する、というような無茶苦茶な話ではありません。それはあくまで、視覚表現が、矮小化された瑣末な意味にばかり収束されず、遥かに〝多義的″であり得ることを意味し、それはつまり、「自由」ということです。



