前回に続いて、この間借りてきた映画の感想でも書いてみますか…。
何かというと、『気狂いピエロの決闘』という映画なんです。
しかしこれはまた、久しぶりに、ちょっと難しい作品なんですね。
どう難しいかといえば、別に作品の内容が難解なわけではない。内容自体は図式的過ぎるくらい図式的で、実にイマジネーティブな娯楽系アート・フィルムなんですが、実はこれは、強烈に、鑑賞する側の認識を問う種類の作品なのです。つまり、そういう意味で、たいそう難しい…。
よくわからないけど何となく面白い映画を探しています、という向きには、まかり間違っても勧められないし(実際、観始めても、度を超えた気持ち悪さにリタイアする可能性大です)、また一方、悪趣味なもの見たさに、ホラー趣味でこれを鑑賞したところで、何れ、大した意味は無い気がします。
監督は、アレックス・デ・ラ・イグレシアというスペインの奇才(らしい)ですが、この作品は、一見、エキセントリックでグロテスクなカルト映画の様相を呈していても、実は、ヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を始めとする、一般権威の最高峰に近い冠も戴いている。これはどうしてでしょう?
それはまず、この映画、『気狂いピエロの決闘』を理解する上では絶対に知っておかなければならない「スペインの歴史」というものがあるようなのです。これは例えば、前回の『ジャンゴ 繋がれざる者』における「奴隷制」にも言えることですが、少なくともこの映画の作品テーマである「スペイン内戦」と、戦後フランコ政権の独裁が人々に与えたトラウマの深刻さ、というあたりを一応、了解してからでなければ、この表現が何故あれ程までに過剰なのか?我々にはちょっと(大分?)解り辛く、曲解してしまう恐れもありそうです。
大体、一般的な日本人にはこの辺、わりと疎いところですよね。
物語は、かつてスペイン内戦に、共和国政府軍として否応無く従軍させられ、処刑された〝おどけピエロ″を父に持つ一人息子が、戦後、父の言いつけ通り、〝おどけピエロ″ではなく、決して愛されることのない〝泣き虫ピエロ″となる。
彼は雇われたサーカス一座で〝おどけピエロ″とコンビを組まされるが、この相棒は、病的精神の持ち主で、凄まじいサディスト。元々〝父性″に対し従順で、逆らえない主人公は、この〝おどけピエロ″に対してもされるが儘になっている。ところが、一座の華である美しい女性、ナタリアを相棒と奪い合う羽目となり、結局、彼は従順な息子から一人前の男に生まれ変わるため〝死の天使″となってテロル(復讐)を開始する。二人の気狂いピエロ達の決戦は、奇しくもかつて〝共産主義者とファシストが、死によって一つになった場所″「戦没者の谷」で狂々しく展開する。サーカス団のバイク乗りは人生をかけた最後の飛翔に失敗・自爆し、唯一、無償の価値と追い求めた愛(母性)は失われ、見守っていた男の口から言葉が漏れる。「終わっているのはこの国の方だ」。
ラストシーン、連行される警察車両の中で〝泣き笑い″するピエロ達の哀切の表情は、この国の運命の過酷がどれほどのものであったか、洗いざらいぶちまけているようで、既に虚構の文脈を超え、魂を撃つ。
ざっと筋を辿っただけでも明白な通り、要するにこの物語は、スペインの暗黒の歴史を、二人の道化師に投影し、告発しているのです。
ピエロの二面性は、かつて一個の人格(国民)でありながら引き裂かれ、殺戮し合う対立の構図を、主人公を抑圧し、支配し続ける〝父性″は、暴力・ファシズム・強権政治の不気味を、また、結果、誰もが何処にも至れず、全てを失い尽くすラストは、エゴと憎しみに焼き尽くされた民族の末路を、あたかも全身全霊、血を吐くようなペシミスムで問い掛けて来る。
ただ、重要なことは、この映画が真に問題にしているのは、実は政治そのものではなく、あくまで、政治というものが人々に及ぼした「心の闇」の方だということです。この点に絞って切り込んだところが、『気狂いピエロの決闘』の重大な意義であり、またそれが唯一孤高であるが故、最も評価に値するのだと思います。
まあ、何れにせよ、考えなければならないのは、この映画が描くトラウマ世界とは、決して遠くの場所の話しではないということです。
言わずもがな、我が国にも「戦没者の谷」に類する靖国があるし、また、かつて朝鮮半島分断の遠因を作った(かもしれない)のも我々の祖先なら、近頃に至っては、再び、民族間の憎悪、対立の機運がいや増すばかり…。これは何処となく、〝気狂いピエロ″達が暴発し始めた社会と遠からず、と思われるのは私だけでしょうか?
さて、最後に、この作品の映画としての印象もちょこっと記しておきましょう。
この作品は一口に、娯楽物の方法論を駆使した、バリバリのアートフィルムと言えると思いますが、全体に不思議なちぐはぐ感があって、映画の系統から言っても、かなり特異な印象です。
何というか、作家本人の独自な表現ポリシーで一貫しているというよりは、どのシーンも、妙な既視感、つまり、好きなイメージの寄せ集め的な感じがややしました。
例えば、冒頭の戦闘シーンは『プライベート・ライアン』、そして、サーカスというのはやっぱりフェリーニ的なあれかな?などと考えていると、中盤、結局、この作家はピーター・グリーナウェイ好きなんだな、と思いきや、日本の『ピノキオ√964』的なパンク・テイストで突っ走り、かと思うとクライマックスは、定番のハリウッド・スタイル…、みたいな…。そのくせ、タイトル・バックや素材映像や幻想シーンの使い方は、映画というより「映像」を思わせる、妙~にスタイリッシュなものだったりと…。
これまで芸術系の呪術的暗黒映画と言ったら、パラジャーノフしかり、ホドロフスキーしかり、寺山修司しかり、『イレイザーヘッド』しかり、ピーター・グリーナウェイしかり、少なくとも映画的詩情の強いもの、というイメージがあったけれど、この『気狂いピエロの決闘』にはまた独特の「なんじゃこりゃ」というワールドが展開されていて、しかしまあ、これはこれでいいのかなと…(よくわからないけど)。
補足すると、作品中、夜のシーンの撮影はどれも素晴らしいけれど、何故かサーカスのデイライトのシーンがやけに奥行きに欠ける平板な印象で、詰まらなく感じました。そこだけ、惜しまれるなー。