猫の肉球がですね、うちの猫の右手小指の肉球に、深爪が突き刺さっているのを発見したんですね。少し前に。
でもって、今日、行きつけの動物病院に連れて行きました。
いつもの先生が、幅広のニッパーのような器具で、難なく引っこ抜いてくれたんだけど、その瞬間、ピンク色のちいさなちいさな手のひらから、ぴゅっと紅い鮮血が飛び散って、何だか妙に、切ない気持ちになりましたよ。
今日、なんとなく心に残った情景です。
心に残ったといえば、その後、宵になってから、映画館の方へ行ったんですね。道の脇で煙草を吸いながら、ふと見ると、ガラス張りのラーメン屋のカウンターで、一人のサラリーマンが晩飯を食っている。
なんでもない光景なんですが、その人、物凄く旨そうに、生き生きと飯を平らげているんですね。ひとりなのにね。
ヘぇ~、と思って眺めていると、すぐに合点が行きました。なるほど、今は仕事明けの時刻で、大体、これから連休が始まるんだな…と。
するとこの人は一週間ぶりに人間に戻ってきたわけか…。
先ずは旨い飯でも食って、それから…ってわけで、まあ、これを有り体に、人生最良の時と呼ばずして何と言えばいいのでしょう?実にまったく。
さて、それはそうと、どうして僕はこんな時刻に映画館の方へなど行ったのかというと、実は映画を観に行ったからです。
何を観たかといえば『風立ちぬ』。
実はこの映画については、はっきりした前評判を殆ど聞いていなかったので、劇場まで足を運ぶべきか、少し迷ったのですが、結局、どんなものかと思って、行ってみました。
映画が始まって、(内容でいうと)関東大震災の辺りまで、僕はこの映画を、非常に詰まらなく感じました。実を言うと、昨日の頭痛のダメージで眼が霞み、なんだか眼の焦点が合わなかったことと、開始直前にかかってきた仕事の内容らしい留守電が気になって集中できず、挙句、「まったくこの映画はなんだって、徹頭徹尾、漫画みたいな絵で世界を描き直さなければ気が済まないんだろう」などと考えていたくらいです。
しかし、結論から言うと、最終的にこの映画は物凄く面白かった!これまでにない、特異で、素晴らしい奇想の表現を観た気がします。
例えば、日本人にとっても、表現にとっても、とても難しい問題である「戦前」を、リアルでありながら、同時に全く新しい風景として感じさせた点や、今回は特に、日本人の顔相や、民族間の描き分けを徹底的に行っているようで、何か新しい位相の客観視点が編み出されている気さえしました。
また、そもそも、あえて流行らない史実と、忘れ去られた文学を独善的にミックスし、奇想天外な器にぶち込んで見せる、これぞ「作家性!」と言わずにおけない奇想の妙!
はたまた、それよりも何よりもこの映画がたまらないのは、作品が、ひたすら作家自らの偽らざる性としてのコアな「マシン・フェティッシュ」に浸された挙句、散文からも逸脱し、最終的に、訳のわからない境界に止まって閉じる、あの感覚…。あれこそ、この映画が言い当てている一つの核心だと思うのです。
例えばそれは、こんなこととも言えます。
ある種の男の子の因果な脳から編み出されるもの。例えば、映画。例えば、兵器。例えば、原発。
