長すぎた一夜
昨夜は大叔母(義父の妹さん)が、義父の病室に泊まってくれていました。大分県から、昨日、娘さん(旦那のいとこ)と一緒に来てくれました。大叔母に泊まっていただくのは、申し訳ありませんでした。彼女も80歳で高齢だし、フェリーと高速バスで18時間の長旅でお疲れだし、病院のベッドと言っても、ソファーだし。でも、義母も旦那も泊まりたくなかったので、助かりました(^▽^)/大叔母自身も「兄さんと一緒に過ごしたい」と仰っていたし、大叔母の娘さん(旦那のいとこ)も、「母はおじさん(義父)と最後に過ごしたいみたい」と仰っていたし、旦那は「いまだに、親父との関係は悪くて、居心地が悪くて、二人きりは無理」だそうでした(;^ω^)今朝は8時前に彼女から電話がありました。「担当の先生が診察に来てくれて、容態が悪いから、ご家族を病院に呼んでくださいって言われました」ということで、大急ぎで朝食を食べて、病院へ行きました。病院には、大叔父(義父の弟さん)父子も来てくれました。北名古屋市に在住で、病院までは車で片道40分ほどだそうでした(^▽^)/私は大叔父には、数回会ったことはありますが、その息子さんに会ったのは、初めてです。旦那の5歳下の旦那のいとこだそうですが、旦那も会ったのは、30年ぶりくらいだそうです(;^ω^)子供の頃も、ほとんど会ったことが無かったそうです(;^ω^)義父の容体は、「腕がむくんでいて、点滴の針が刺せない。今は足に刺しているが、その血管ももろいので、しばらくしたら刺せなくなる。」と言われていました。そこから、ブドウ糖液と、抗生物質を入れていました。昼食は、13時頃に、病院の食堂へ行き、皆で食べました(^▽^)/私は日替わり定食の味噌カツをいただきました(^▽^)/食後は、病室で義父を見守ったり、ロビーで休んだりを繰り返しながら、ふらふらしていました。それからだんだん足の注射から点滴が入らなくなっている、ということで、みぞおち辺りの皮下注射へ切り替えました。血管よりも少しづつしか点滴できず、じわじわと、食塩水を入れているだけだそうです。14時くらいになった時に、容体が変わらなかったので、私と大分市の旦那のいとこの2人だけ病室に残って、他の方は一旦帰宅することにしました。大叔母と、義弟は、義母の家に行って、シャワーを浴び、北名古屋市の大叔父父子は自宅へ、旦那と息子は、病院近くの長久手古戦場へ、お城印を買いに行きました。旦那と息子が、大叔母を連れて16時過ぎに病院に戻ってきてから、また今夜も大叔母に病院に泊まってもらうことになり、私と旦那と息子と、大分市の旦那のいとこは、一旦帰宅することになりました(^▽^)/が、15分ほど車に乗ったところで、病室に行った大叔母から電話があり、「容体が悪化しているから、戻ってきて」と言われましたΣ(゚д゚lll)ガーン息子はこの後、ピアノ教室へ行く予定だったのですが、大慌てでピアノの先生に連絡して、キャンセルしました。北名古屋市の自宅へ帰ろうとしていた大叔父も大慌てで病室へ駆けつけ、「兄貴~!!」と泣いていました。病室に戻ってからは、病室で義父を見守ったり、ロビーで休んだりを繰り返しました。夕食を取らずに、緊迫した時間を過ごしていたのですが、夜8時頃になって息子が、「お腹が空いた」と言い出したので、病院のコンビニに行きました。よくこの時間まで、息子も我慢していたものです(;^ω^)コンビニは20時閉店だったので、ギリギリ間に合い、お菓子とおにぎりを買いました(;^ω^)その後しばらくまた、病室とロビーをうろうろしながら緊迫していましたが、21時頃、私と息子は、車に行って、仮眠を取ることにしました(^▽^)/が、車内が寒いのと、硬いのと、緊張感で、ほとんど寝られませんでした。そうこうするうちに、明け方4時頃になったら、旦那が迎えに来ました。電話をかけたそうですが、マナーモードになっていて、気が付きませんでした(;^ω^)病室に戻ったら、義父は、呼吸が一分間に6~7回になっていて、血圧も低すぎて測れない状態になっていました。もう苦しそうではありませんでした。そこから、旦那たちが「じいちゃん!」と体をゆすると、ちょっと息をする、という状態がしばらく続いた後、4時半過ぎくらいには、息を全くしなくなりました。看護婦さんが確認した後、当直の先生に来ていただき、確認していただいて、死亡宣告をしていただいたのは、朝の5時7分でした。窓の外は明るくなってきていました。皆「じいちゃん!」「兄貴!」「兄さん!」「お父さん!」と何度も声をかけ続け、泣いたりして、最後の方は疲れ果て、看護婦さんに「声をかけてあげてください」と言われても、皆、声が出ず(;^ω^)長い一夜でした。。。