自分の読書暦を振り返ってみると、私は高校生の頃に寺山修司や、坂口安吾の本に出会ったのがきっかけで、以後、今に至るまでずーっと本を読み続けるようになるわけだが、一番最初に活字のもつ見事なイリュージョンの魔力にやられたのはいつだろうと記憶を遡って考えてみると、それは小学校3年生の夏休みに読んだある短編小説が私にとっての「文学のふるさと」ではなかったかという結論に至る。
その短編小説とは、童話作家・佐藤さとるの短編集『コロボックルのトコちゃん』と題された文庫本に収められた内の一話『魔法使いの近道』という僅か10数ページばかりの小説である。
私はその夏、夏休みの宿題である読書感想文を書かなければならないため、母親の書棚に並べられた文庫本の中から自分でも読めそうな本として直感的に佐藤さとるの文庫本を選んだ。
当時、短編集という概念が分からなくて、しかも、この本は頭の3話はコロボックルのお話なので、私はてっきりいわゆる『サザエさん』などのような、トコちゃんが主人公の一話完結タイプのお話が沢山収められているのかと思っていたのだが、そんなところで4話目の『遠い星から』で一転してコロボックルが登場してこないのですっかり混乱してしまったことを思い出す。
そうこうして、この本は色々な主人公の短い話が沢山入った本なんだということがやっと理解できた頃に、問題の『魔法使いの近道』と出会うわけである。
このお話は、けいすけという主人公の男の子が、母親に連れられて遠く離れた町に住む母親の友人の家にやってきた場面から始まる。けいすけにとっては生まれて初めてきた町である。
行った先の家には母親の友人の娘であり、けいすけとはおそらく同い年くらいである女の子「なおみ」がいた。
その家のおばさん(母親の友人)から「天気なんだから二人で外に行って遊んできなさい」と言われたため、二人は外に出る。この町に来るのが始めてだとけいすけが告げるとこの町を案内してあげるとなおみは行って、先を歩き始めるのだが、なおみはわざと無茶苦茶な道を選んでいるかのように曲がりくねった道や家と家の間の細い道を選んでずんずん進んでゆく。そして、垣根に挟まれた狭い道にたどり着くとなおみは走ってその先の曲がり角を曲がってしまい姿を消してしまう。
けいすけは最初、どこかでなおみが隠れてみているかもしれないと思い、わざと平気なふりをしてもと来た道を辿ってゆくが次第に見覚えのない町並みになってしまい、ついには心細くなって泣き出してしまう。
そんなとき、ふと目の先の電信柱の後ろに、なおみと背丈が同じくらいの人影を見る。
近付くと人影は消えてしまっていたが、電信柱の横に板塀で出来た小さな戸があった。その戸を開けてみると、小さな空き地に繋がっており、その空き地でなおみと同じくらいの背丈のおばあさんと出会う。
「どうやら、坊やは道を無くしたみたいだね」と老婆はいうと、けいすけに一枚の青い紙を渡す。「とくべつつうこうけん」と書かれた紙をこの先の道で出会う赤いシャツのおじさんにわたせば、坊やの帰りたいところに必ず帰れるからといい、けいすけを空き地のさっき入ってきた戸とは違う出口に誘う。
けいすけは老婆に促されるまま戸を開け、その先に広がる一本道を進んでゆく。すると懐かしい匂いに気が付く、これは毎年夏になると海水浴に連れて行ってもらうときにする、海の匂いだ。
道の突き当たりはコンクリートの低い堤防があって、その向こうに海が広がっている。その右手の階段を上ったところに船着場があり、モーターボートが一隻止まっていて、その船から赤いシャツを着てパイプをふかした髭もじゃの大男が一人降りてきた。
けいすけはさっきおばあさんが言ってた人だと思い、その大男に声を掛け、先ほどの「とくべつううこうけん」を渡す。すると大男は大きな声で笑い、けいすけをボートに乗せ出発する。
ボートはあっという間に小さな島の砂浜に着く。この砂山を登れば、なおみの家の目の前だと大男は言う。
けいすけは言われた通りに砂山を登ってゆく、一度目振り向いたときには、まだ水平線が見え、ボートとともにこちらに向って手を振る男の姿が見える。少し進み次に振り返ったときは海は霞み、霧が晴れるように海の景色が消えると、町の景色が現れる。けいすけの目の前に見覚えのある家が現れる。なおみの家だった。
もちろん、このまちには海などは無いということわりがあり、この物語は終わっている。
ずっと幼かった、おそらく幼稚園児の頃だったと思う。私は家族旅行で仙台に連れて行ってもらったことがある。
何故か「仙台」という単語が当時の私に強く印象付けられたことを思い出す。幼かったので、旅行自体の記憶は殆ど無いのだが、“「仙台」に行った”という事実認識だけが、以後思い出として残る。
旅行から帰ってきて、数日後―或いは数週間、もしくは数ヶ月後―私はある夢を見る。
夢の中で私は仙台にいる。何故ここが仙台なのか、今こうやって冷静に考えると不明なのだが(仙台の風景は覚えていないので)夢の中の私はここが仙台だと確信している。まあ夢とはそういうものだろう。
仙台の町の、とある建物の中のだだっ広いホールのようなところに私たち家族はいる。そこで私と兄は親の目を盗んで、ホールの壁面にあった一つの戸を開けてその中に入ってしまう。
すると、戸の向こうには何故か私の生家があり、私と兄だけが自分の家に戻ってきてしまう。『ドラえもん』のどこでもドアの様だが、戸は跡形もなく消えている。つまり、戸をもう一度開けて、仙台に戻ることは出来ない。
私と兄はすっかり困ってしまった挙句、親戚のおじさんに事情を話して助けてもらおうという兄の意見で親戚の家に向う。親戚のおじさんの家は遠く離れているが、当時の私は自転車に乗れなかったため、兄の後ろに乗っけてもらい親戚のおじさんの家を目指して自転車を進ませてゆく。
ここで夢が終わる。
この不条理な夢は当時の私に強烈なインパクトを与えた。何故かこの夢に変な、当時おそらく幼稚園生の自分にとってはおかしな感情かも知れないが、どこか懐かしさのような愛着すら持っていたことを覚えている。
そして、それから数年後前述の『魔法使いの近道』を読んだ時、私自身の秘密の夢が形を変えて書かれているようでとてもびっくりした。それは、私の夢も佐藤さとるの小説も、いわばワープの概念のようなものが織り込まれているという共通点ももちろんあるが、私が『魔法使いの近道』の中に自分自身の秘密の部分を見出した点はけいすけが老婆に青い紙を手渡されたあと、赤シャツの男に会うまでの道中にけいすけが感じた海のにおい=懐かしいという感情である。ここではない、そもそもどこでもないという場所なのにどこか懐かしさを感じる場所というのは私たちが日常意識して過している理性的領域と、理性が掬い上げることができない無意識的領域がモザイク状に重なり合った混沌的空間=人間の根源的な「ふるさと」である。
思えばこの本との出会いが私にとって始めての幻想文学体験だった。
そして、その夏の読書感想文はあえてこの話を外したことことははっきり記憶している。何故か直感的にこのことは学校には秘密にしなくてはいけないと思った。
自分自身の原風景のようなものを語るのは随分恥ずかしい思いだが、いま語ったことが私にとって文学のふるさとであることはどうやら間違いないようである。以後、大人になった私は内田百の短編やサミュエル・ベケットの戯曲、フロイトのタナトス論などに同じテーマ、「ふるさと」を見出して行くこととなる。
続く
その短編小説とは、童話作家・佐藤さとるの短編集『コロボックルのトコちゃん』と題された文庫本に収められた内の一話『魔法使いの近道』という僅か10数ページばかりの小説である。
私はその夏、夏休みの宿題である読書感想文を書かなければならないため、母親の書棚に並べられた文庫本の中から自分でも読めそうな本として直感的に佐藤さとるの文庫本を選んだ。
当時、短編集という概念が分からなくて、しかも、この本は頭の3話はコロボックルのお話なので、私はてっきりいわゆる『サザエさん』などのような、トコちゃんが主人公の一話完結タイプのお話が沢山収められているのかと思っていたのだが、そんなところで4話目の『遠い星から』で一転してコロボックルが登場してこないのですっかり混乱してしまったことを思い出す。
そうこうして、この本は色々な主人公の短い話が沢山入った本なんだということがやっと理解できた頃に、問題の『魔法使いの近道』と出会うわけである。
このお話は、けいすけという主人公の男の子が、母親に連れられて遠く離れた町に住む母親の友人の家にやってきた場面から始まる。けいすけにとっては生まれて初めてきた町である。
行った先の家には母親の友人の娘であり、けいすけとはおそらく同い年くらいである女の子「なおみ」がいた。
その家のおばさん(母親の友人)から「天気なんだから二人で外に行って遊んできなさい」と言われたため、二人は外に出る。この町に来るのが始めてだとけいすけが告げるとこの町を案内してあげるとなおみは行って、先を歩き始めるのだが、なおみはわざと無茶苦茶な道を選んでいるかのように曲がりくねった道や家と家の間の細い道を選んでずんずん進んでゆく。そして、垣根に挟まれた狭い道にたどり着くとなおみは走ってその先の曲がり角を曲がってしまい姿を消してしまう。
けいすけは最初、どこかでなおみが隠れてみているかもしれないと思い、わざと平気なふりをしてもと来た道を辿ってゆくが次第に見覚えのない町並みになってしまい、ついには心細くなって泣き出してしまう。
そんなとき、ふと目の先の電信柱の後ろに、なおみと背丈が同じくらいの人影を見る。
近付くと人影は消えてしまっていたが、電信柱の横に板塀で出来た小さな戸があった。その戸を開けてみると、小さな空き地に繋がっており、その空き地でなおみと同じくらいの背丈のおばあさんと出会う。
「どうやら、坊やは道を無くしたみたいだね」と老婆はいうと、けいすけに一枚の青い紙を渡す。「とくべつつうこうけん」と書かれた紙をこの先の道で出会う赤いシャツのおじさんにわたせば、坊やの帰りたいところに必ず帰れるからといい、けいすけを空き地のさっき入ってきた戸とは違う出口に誘う。
けいすけは老婆に促されるまま戸を開け、その先に広がる一本道を進んでゆく。すると懐かしい匂いに気が付く、これは毎年夏になると海水浴に連れて行ってもらうときにする、海の匂いだ。
道の突き当たりはコンクリートの低い堤防があって、その向こうに海が広がっている。その右手の階段を上ったところに船着場があり、モーターボートが一隻止まっていて、その船から赤いシャツを着てパイプをふかした髭もじゃの大男が一人降りてきた。
けいすけはさっきおばあさんが言ってた人だと思い、その大男に声を掛け、先ほどの「とくべつううこうけん」を渡す。すると大男は大きな声で笑い、けいすけをボートに乗せ出発する。
ボートはあっという間に小さな島の砂浜に着く。この砂山を登れば、なおみの家の目の前だと大男は言う。
けいすけは言われた通りに砂山を登ってゆく、一度目振り向いたときには、まだ水平線が見え、ボートとともにこちらに向って手を振る男の姿が見える。少し進み次に振り返ったときは海は霞み、霧が晴れるように海の景色が消えると、町の景色が現れる。けいすけの目の前に見覚えのある家が現れる。なおみの家だった。
もちろん、このまちには海などは無いということわりがあり、この物語は終わっている。
ずっと幼かった、おそらく幼稚園児の頃だったと思う。私は家族旅行で仙台に連れて行ってもらったことがある。
何故か「仙台」という単語が当時の私に強く印象付けられたことを思い出す。幼かったので、旅行自体の記憶は殆ど無いのだが、“「仙台」に行った”という事実認識だけが、以後思い出として残る。
旅行から帰ってきて、数日後―或いは数週間、もしくは数ヶ月後―私はある夢を見る。
夢の中で私は仙台にいる。何故ここが仙台なのか、今こうやって冷静に考えると不明なのだが(仙台の風景は覚えていないので)夢の中の私はここが仙台だと確信している。まあ夢とはそういうものだろう。
仙台の町の、とある建物の中のだだっ広いホールのようなところに私たち家族はいる。そこで私と兄は親の目を盗んで、ホールの壁面にあった一つの戸を開けてその中に入ってしまう。
すると、戸の向こうには何故か私の生家があり、私と兄だけが自分の家に戻ってきてしまう。『ドラえもん』のどこでもドアの様だが、戸は跡形もなく消えている。つまり、戸をもう一度開けて、仙台に戻ることは出来ない。
私と兄はすっかり困ってしまった挙句、親戚のおじさんに事情を話して助けてもらおうという兄の意見で親戚の家に向う。親戚のおじさんの家は遠く離れているが、当時の私は自転車に乗れなかったため、兄の後ろに乗っけてもらい親戚のおじさんの家を目指して自転車を進ませてゆく。
ここで夢が終わる。
この不条理な夢は当時の私に強烈なインパクトを与えた。何故かこの夢に変な、当時おそらく幼稚園生の自分にとってはおかしな感情かも知れないが、どこか懐かしさのような愛着すら持っていたことを覚えている。
そして、それから数年後前述の『魔法使いの近道』を読んだ時、私自身の秘密の夢が形を変えて書かれているようでとてもびっくりした。それは、私の夢も佐藤さとるの小説も、いわばワープの概念のようなものが織り込まれているという共通点ももちろんあるが、私が『魔法使いの近道』の中に自分自身の秘密の部分を見出した点はけいすけが老婆に青い紙を手渡されたあと、赤シャツの男に会うまでの道中にけいすけが感じた海のにおい=懐かしいという感情である。ここではない、そもそもどこでもないという場所なのにどこか懐かしさを感じる場所というのは私たちが日常意識して過している理性的領域と、理性が掬い上げることができない無意識的領域がモザイク状に重なり合った混沌的空間=人間の根源的な「ふるさと」である。
思えばこの本との出会いが私にとって始めての幻想文学体験だった。
そして、その夏の読書感想文はあえてこの話を外したことことははっきり記憶している。何故か直感的にこのことは学校には秘密にしなくてはいけないと思った。
自分自身の原風景のようなものを語るのは随分恥ずかしい思いだが、いま語ったことが私にとって文学のふるさとであることはどうやら間違いないようである。以後、大人になった私は内田百の短編やサミュエル・ベケットの戯曲、フロイトのタナトス論などに同じテーマ、「ふるさと」を見出して行くこととなる。
続く
