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Long Goodbye 1981

日々思ったことをひっそりと

中学校1年生のときに、国語の授業で『いのち、ということ』という話を教わった。

私の中学校1年生のときの国語教師は典型的な父権主義者で、プチ石原慎太郎みたいな教師だったのだが、

私たち学年の国語を受け持っている間、詳しい原因はもう忘れてしまったが1ヶ月近く学校を休んだことがあった。

その教師の休みの間、年齢50歳台くらいの小柄で品の良さそうな女性教師が補欠教師として私たちに国語の授業を教えてくれたのだが、その時期に教わったのが『いのち、ということ』という話である。

この話は親の仕事の都合で6年ほど前からドイツのケルンに移り住んで暮らしているトオルという日本人の男の子が主人公である。

トオルはギムナジウムの2年生(日本人の小学校でいえば6年生)で放課後は友人たちとサッカーに夢中になってる少年で、クラスメートのブリギッテ(マドンナBというあだ名)という少女に密かに淡い思いを抱いている。

さて、トオルのクラスはある日、課外授業として何と豚の解体現場を見学することとなる(日本の学校では中々考えられない話だが)。クラスメートの一人の男子のおじが農家を営んでおり、そこで飼われている豚を一頭つぶしてソーセージにする過程を見学するというのである。

クラスの一同は電車に乗り農場のある郊外まで向う。道中は元気があったトオルやクラスのみんなも、農場に着くやいなや、「世にもあわれな」としか形容できない悲鳴を聞き、一同縮みあがってしまう。

それは今まさに殺されている豚の悲鳴であった。

豚の悲鳴が止むと、中からおじさんが出てくる。豚は絶命したのだ。

おじさんは、「これから豚を解体する作業に入る、見学をしたいという生徒だけはついて来なさい。一生のうちに何度も見れるもんじゃないだろうから」という旨を説明し、志願者だけが建物の中に入るよう誘った。

男子たちはお互いがお互いを探りあいながらぞろぞろと動き出した。女子でついて来たのは三人。その三人の中にマドンナBの姿もあった。

納屋に入ると薄闇の中に豚が宙吊りにされ浮かんでいる。これからこの豚は解体され人間の食料になる。

「おれたちドイツの農民は、豚の血の一滴、内臓のひとかけらだって無駄にはしない。ぜんぶ使って色々な方法で食べちまう。なんせ、神様が与えてくれださった大事な豚だ。そまつになんかできゃしない。」

おじさんが呟く。

そんな中、先生はつかつかと歩いてゆき、吊るされている豚の背中に手を突っ込んだ。

「あたたかいんだ、この豚。まだ、ぬくもりがある。肉があたたかい」

先生はトオルたち生徒に穏やかに話しかける。そして誰でもいいから、同じように触ってごらんと生徒たちを誘う。生徒たちはトオルはじめみんな動くことが出来ない。そんな中ひとり進み出たのはマドンナBだった。

マドンナBは豚に手をあてて「あたたかいわ、本当にあたたかい」と穏やかな声でささやく。


その夜、トオルはその日起こった事、マドンナBのことを思い眠れなくなってしまう。午前1時を過ぎた頃、トオルは部屋のカーテンを開け、窓を開けてみる。窓の外は寝静まったケルンの町が広がっている。芽吹いたばかりの緑の匂いがする。春の匂いだ。


そこで教科書のお話は終了になっている。

私は最後の箇所でトオルが窓の外の真夜中の風景を眺めるところがたまらなく好きだった。

何度も何度もその箇所を繰り返し読んだ記憶がある。

思えば中学一年生の頃は、私は始めて『他者』というものを意識しだした時期だったようにも思う。

『他者』越しに見る景色の美しさ、そういった『他者』とか『美』といったものを私にとって始めて活字によって教えてくれたのがこの作品だったんじゃないだろうか。


ところでこの話には続きがある。もともとこの話は「あしたは晴れた空の下で」というタイトルの小説で「いのち、ということ」というのはこの小説の序盤にあたる。

この物語は1986年という時代をトオルたちは生きている。物語はその後、チェルノブイリ原発が事故を起こし、放射能の恐怖がドイツに住むトオルの町へも拡がってゆく。そんな中でトオルの母が妊娠していることが判明し、トオルはこれから生まれてくる命のこと、そして実は原子力発電所の技術者である父を持つブリギッテ(マドンナB)が父の元へと旅立ってしまうという出来事を体験し物語は進んでゆく。

このお話はこれからチェルノブイリが事故を起こした後の話になっていくんだということを、当時の臨時教師にも教えてはもらっていた。

しかし当時の私はあまり気にも止めていなかった。チェルノブイリ原発事故も遠い国で大きな事故があった程度にしかわかっていなかったように思う。


この中澤晶子著の『あしたは晴れた空の下で』という小説は長いこと絶版になっていた。国語の教科書で「いのち、ということ」が掲載されていたのも三年間だけだったらしい。ネットで調べた知識だと、何でも屠殺の現場の描写が教科書的にふさわしくないという意見なんだとか(本当かはわかりませんが…)

兎にも角にもこの物語は長い間読むことが出来なかったのだ。だが、去年の3月の福島第一原発の事故を期に復刊の運びとなっている。

私は復刊のおかげで始めて物語の全編を窺い知ることができた。なんとも複雑な心境である。

本を読み進んでみると「いのち、ということ」の部分は懐かしく、トオルが夜中窓を開ける部分は何だか分からないが気恥ずかしいような不思議な気分になった。

話は「いのち、ということ」の次の章からチェルノブイリ事故の話になり、話は放射能の恐怖に包まれるトオルの町を描いていく。

そしてその中で生まれる新たな命。

トオルが見たクリスマスの日の朝の、雪の降り積もった町並み。


私はこの『あしたは晴れた空の下で』を一気に読み終えた。

じつに17年ぶりにトオルと出会うことが出来たのだ。そして、『他者』というものを教えてくれた、私にとってとても重要なこの物語は、17年という時を経て私に再び大きな課題を与えていったように思う。

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