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Long Goodbye 1981

日々思ったことをひっそりと

わたしの主要なテーマである知識人の表象<レプリゼンテーション>に立ち返ろう。わたしたちが個人としての知識人について考えるとき――ここではあくまでも個人がわたしの主たる関心事なのだが――、このとき、知識人の個性なり人となりを浮き彫りにするには、個人としての知識人の肖像を描くべきなのだろうか、それとも、その知識人が属している集団なり階級に焦点を絞るべきなのだろうか。この質問に対する答えしだいで、わたしたちが知識人の言葉に期待するものも影響をうける。

わたしたちは知識人の言葉を聞いたり読んだりするとき、それを個人的な見解として受け止めているのだろうか、それとも、それを政府なり、組織政党の綱領なりロビー・グループを代弁=表象<レプリゼント>するものとして受け止めているのだろうか。十九世紀における知識人の表象は、知識人の個性を強調する傾向にあった。知識人は、ツルゲーネフのバローザフであれ、ジェイムス・ジョイスのスティーブン・ディーダラスであれ、おおむね孤独で、どことなくお高くとまっていて、社会にも同化せず、そのため体制的な意見とはそりがあわない反抗的人間であった。

ところが、一般に知識人とかインテリと呼ばれる集団に属する男女――管理職、大学教授、ジャーナリスト、コンピューター専門家、政府の専門家、ロビースト、有職者、コラムニスト、コンサルタントなど、いうなれば意見を求められ金を支払われる人びと――の数が増えることで、独立した声としての個人という知識人のありかたがはたして維持できるかどうかが問われずにはいられなくなったのだ。

これは、途方もなく重要な問いかけであり、現実主義と理想主義の双方をにらみあわせたかたちで考える必要がある。冷笑主義的態度<シニシズム>は、ここでは不要だ。オスカー・ワイルドがかつて述べたように、冷笑家とは、すべてのものの値段は知っていても、どんなものの価値も知らない人間のことなのだから。知識人が大学で教えたり、新聞に顔を出したりして糊口をしのいでいるからといって、知識人を裏切り者呼ばわりするのは、およそほめられたことではないし、結局のところそれは無意味な攻撃であろう。世界は腐敗しているので誰でも最後には富の邪神<マモン>の軍団にくだるのだと語ることは、あまりに雑駁で冷笑的な議論だろう。とはいえ、知識人個人を完璧に理想化して、いかなる物質的な利害の誘惑にも屈しない純粋かつ高貴な輝ける騎士にまつりあげるのも、どうかと思う。物質的利害すべてを拒否するのが知識人だというのなら、この基準にパスしそうな人間などどこにもいなくなる。ジョイスのスティーブン・ディーダラスにしても、純粋一徹で、過激なまでに理想主義的であるため、最後にはなにもできなくなり、さらにわるいことには沈黙を余儀なくされてしまうのである。

知識人が論争とは無縁の人畜無害の愛想の良い専門家といったような人物になりさがってしまうのは絶対に避けるべきであるが、かといって、予言者カッサンドラのように、独善的な人物としてけむたがられるだけで、耳も傾けてもらえないような人物になるべきでもないというのが、偽らざるところではないか。どのような人間も社会によって規制される。それがどれほど自由で開かれた社会であろうと。また、その個人がどれほどボヘミアン的であろうとも。いずれにせよ知識人は、メッセージの発信者と思われているわけで、現実の場において議論を、いや、できるなら論争を惹起すべきである。完全な沈黙か全面闘争だけが知識人のありかたではない。

――エドワード・W・サイード『知識人とは何か』