8月某日。 ストレス発散と称して新宿に一人繰り出し、本やらレコードやらをまとめて買ってみる。その後、日も暮れて腹も減ってきたので一人、スパゲティ屋「あるでん亭」へ。店内はカップルや女性客ばかりで若干、居心地が悪い思いをしたが、それより以前より明らかに味が落ちたような気がして残念でならなかった。
食事後、早々に店を出て、地上から駅へ向かう途中、西新宿のビル街の風景にふと歩みを止める。
人混み。雑踏。画一的な高層ビルが軒を並べる都会の風景を眺めると、息苦しさとともに妙な懐かしさとも安堵感ともとれる感情を覚えるのは何故だろう…
幼い頃、家族旅行で東京ディズニーランドに行ったことがあった。生まれて初めて訪れるディズニーランドに、同年代の子供同様に、はしゃぎ、時間を忘れて遊び回った。すっかり日も暮れ、遊び疲れた帰りの車の中、その日の興奮冷めやらぬまま、僕は窓の外に写る首都高の景色をぼんやりと眺めていた。
カーステレオのラジオからはシュガーの[ウエディングベル]が流れていた。
甲高い声で『くたばっちまえ、アーメン♪』と歌うユニークな歌を兄と面白がっていると、父が『この歌っている人は、この前死んじゃったんだよ』と教えてくれた。
人は死んでも残された人の時は一定の速度で流れ続ける。カーステレオから聴こえる毛利公子の伸びやかなコーラスと、後に彼女の上に訪れる死という現実に、当時の幼い自分ながらも、人の一生の儚さといったものを感じずにはいられなかった。
そして車窓の外では、いくつもの高層ビルの光と、現れては通り過ぎていく対向車のネオンライトが都会の夜を彩っていた──。
普段、人気の無いような自然の中へ好んで旅する癖に、都会の雑踏の中に人間のふるさとの様なものを見てしまうのは、そうした僕の感傷的な思い出を現在の都会の風景に重ねているだけに過ぎないのだろか。
しかし、僕自身のちっぽけなノスタルジックの遙か向こうで魂を揺さぶられている気がすると、ふと考えてしまうのは、いささか思い上がりが過ぎるだろうか…。
