池田大作氏が亡くなってからもう半年が過ぎた。その前からだいぶ長い間、姿を公には見せていなかったので、それほどの断絶感はない。集団指導制が機能しているのだろう。一方で、よく聞くのがその他の新興宗教団体の没落だ。PLや天理教などは信者の落ち込みが激しいとの記事をよく見る。

 

本書は、池田大作をカリスマ的存在としてとらえ、カリスマ亡き後の今後のこの団体の行く末を占ったものだ。本書でも取り上げているように、やはり1969年の出版妨害事件後の路線変更が大きな分岐点だったのだろう。信者数が大幅に増えている70年に、それまでのラジカルな宗教団体というマスクの陰に潜んでいた「幸福製造機」「現世利益」の追求へと名実と共に、宗教色を薄めて路線を切り替えたのは結果としては慧眼だった。現在では、巨大な「相互援助ネットワーク」として機能しているという指摘は其の通りだろう。その後の公明党の政権参加も、この路線を根本から支えているのだ。地方から東京に放出された膨大な根無し草のマスの物心のニーズに様々な形でこたえたのがこの団体だ。


痛感したのは、学会もやはり戦後昭和の組織だったということ。昭和の影が消えた中、もはや折伏大運動時代の熱気はどこにもない。日蓮正宗との関わりの部分はあまり知らなかった部分でもあり、この辺の記述は参考になった。しかし、日蓮正宗との断絶により、末端の学会員の活動の現場や葬儀では宗教色は薄まり、「友人葬」との形が確立されているとのこと。女性の社会進出の下で、婦人部という存在も消えてしまった。公明党自体も、戦後日本に底流として流れる平和主義(中国共産党への甘い認識)と身近な利害追求のみを支えとしており、自民党といかほどの違いがあるのだろうか。元は田舎からの上京という意識を色濃く残してきた学会員も2代目3代目となれば、もはや都会での根無し草という意識は希薄だ。さらに利害のnetworkはもはや学会に限られない。

 

似たような組織に日本共産党がある。こちらはいまだに科学的社会主義という錦の旗を抱く組織であり、民主集中制などの古めかしいテーゼが、すぐに顔をのぞかせてくる。ただこちらは、時代の波をもろに受けており、党員の減少がはなはだしいのは、中央線沿線での駅前でのビラ配りを見ればよくわかる。ステルス組織としての生き残りにその命運をかけている。