1月にソルジェニツーインの「In the First Circle(煉獄の中で)」を読み終えた後に、さて次はどうしようかと戸惑った。何とも言えないやるせなさの感覚の中で、ソルジェニツーインの次の作品に向かう気力は起きなかった。だが、結局3月の声を聴くころには、どういうわけか「収容所群島」のページをめくっていた。

 

この「収容所群島」はいつだったか忘れたが、ソヴィエト崩壊前後のころか、だいぶ昔に一度読み始めたことがある。新潮文庫では全六巻だが、その第一巻でやめてしまった記憶がある。どうも様々な出来事が散文的に繰り出されていくスタイルになじめなかったようだ。今回、この第一巻を本棚で探してみたが、見つからず、今回は英訳で読むことにした。英訳だと、三部作となり、それぞれが約600ページで、おそらく全部で2000ページ近い大作となる。

 

今回はページが不思議なくらいうまく進む。著者のこのスタイルに僕もだいぶ慣れたのかもしれない。

 

しかし、毎日夜の数時間をかけて約30ページほどを読み進めるわけだが、これは何とも言えない読書体験だ。「煉獄の中で」は著者の収容所体験が文学作品として芸術的に昇華された作品なのだが、この「収容所群島」は、彼の芸術作品の根源を決定づけた個人的な経験と思い出を、ある意味では、さらけ出したものなのだ。ここには収容所でその可能性を断ち切られてしまった多数のロシア人の人間の人生の断片が、散文的に、時には著者一流の乾いた皮肉と哄笑に彩られて、提示されてくるのだ。そしてどんな悲劇にも喜劇という側面は内在する。さらには、政治と時間の経過により、裁くものは、裁かれる立場へと一変する。登場する人物は無名の人物から著名な人物まで多岐にわたる。ネットの検索で登場人物の人生を辿っていく。「収容所群島」を現在読むという営為には、昼の光は似合わない、夜にしかできない体験なのだ。

 

本書の出版は、僕も鮮明に覚えている1974年、著者がノーベル文学賞を受賞したころだろうか。その時の「驚き」はもはやない。そして、作品内の記述には1967年頃を思わせる記述が見受けられる。というわけで、10月革命の50周年記念で立った1967-68頃に書かれた作品なのであろう。

 

本書では、彼の個人的な体験から、大量の逮捕者の波(1930年代。第二次大戦直後)、ソヴィエトの茶番ともいうべき法制度の展開、そして収容所という制度の描写まで、事細かに辿られていく。そこには、ロシア革命以前の帝政時代との比較だ。ソヴィエト共産主義体制は「収容所群島」がその本質であり、その萌芽は帝政時代にたどることが可能なのだが、ソヴィエト共産主義の下でのその規模と量、グロテスクさと無機質の程度、さらには制度構築の背後に存在する醜悪なニヒリズムは、もはや別種のものといっていいだろう。量は質の転化につながるというわけだ。

 

なにかが、この2つの時代の間には断絶しているのだ。ソヴィエト共産主義体制はスターリニズムの突然変異に帰着するわけではない。そのグロテスクな本性は、革命直後にすでにレーニン主導の下でその姿を現している。彼らは皆19世紀後半に生を受けた人物たちだ。つまりロシアでは19世紀後半に何かが壊れ始めていたのだ。となると、これはもはやドストエフスキーの世界だ。そう、今回気が付いたのだが、この「収容所群島」の語りとスタイル、ドストエフスキーの「作家の日記」を彷彿させるのだ。

 

第一部は読了。第二部は今読み始めた。