新井氏には英国の英語の微妙な差異を扱った作品が多数ある。この作品もその延長線上に位置づけられるものだろう。今回は執事(butler)という特殊英国的な職業の人が操る英語という視点から、この差異に光を当てた作品。

 

この執事という存在が登場する映画(たとえば「Remains of The Day」を見た方なら、この特異な状況に何となく思い当たるだろう。家の主人に仕えているというわけだから、階級という観点からは、決して上流(upper)に位置するわけではないということは明白。また執事というのは決して社会的な専門職(profession)とは言えない。というわけで、上層中流(upper middle)でもないだろう。いっぽうで、その英語の文体の硬さや用語の選択からいって、労働者階級の喋る英語とも明確に異なっている。となると、この執事の喋る英語はいったいどこに位置づけたらいいのだろう。この微妙な差異の生み出された英国の風土に接近したのがこの作品。

 

英国は、口を開いた瞬間にその人のお里(出身地域と階級)が知れるといわれる社会。その中で社会的なmobilityを強く意識するのが、上流と下流の間に挟まれた中流、特に下層の中流 (lower middle)だ。上流は強烈なprideを自分の出自と育ちに抱いており、経済的な没落は別として、階級下降への心理的な恐怖は意識されない。下流は下流で、ビールを飲みながらサッカーを見て、これ以上、下に落ちようははないという逆説的な心理的な安定性を享受している。微妙なのは中産階級の下層だ。この位置が社会の変化の影響を一番受け、精神的に不安定となり、労働者階級と違う言葉や表現を意識的に使おうとするのだが、この作為性が微妙ながらも明確な差異として残り続けるというわけだ。

 

まー、面白いテーマだが、この階級と地域の差異の構造に本質的に無縁の外国人、特に黄色人種にとってはどうでもいい話。つまるところ雑学。著者の過去の著作で、触れられた点も多く、あまり新味はなかった。さらには、いまや英国自体が海外からの移民で価値の逆転現象にさらされている。だいたい「執事」という職業、今でも存在しているのだろうか。