下斗米さんの作品。

 

テーマのユニークさに魅かれ、一年ほど前に読もうとしたが、途中での「労働組合論争」の部分で撤退。共産党の路線闘争の部分はいつもながら部外者にはわかり難い。ま、後世から振り返ればどうでもいいような問題が、というより共産党の路線はいつもたいてい間違っているのだが、いつもながら激しい権力闘争と絡めて、延々と繰り広げられる。まー、その渦中にいない部外者にとっては、その問題の深刻さがわからないというのが共産党の路線闘争だ。

 

ただどうも気になる作品で、年末からソルジェニツイーンの「March 1917: The Red Wheel / Node III」を読んでいく中で、もう一度読むことに決定。この両作品、けっこう同じ人物が登場するのだ。というわけで、今回は、ゆっくりと根気よく読み進めた。例の「労働組合論争」のところは相変わらずわかり難いのだが、我慢しながらも通り抜けて、最後まで無事読了。

 

テーマの面白さに比べて読みにくいのには、いくつか理由があるようだ。

 

まず、これはいくつかの筑摩新書にも共通するのだが、編集者がちゃんと仕事をしているのか、どうも疑問なのだ。文意がとりにくかったり、読みにくい部分がかなり目につくのだ。これは著者の文体の特徴なのだろうか。下斗米さんの名前は大学生のころから知っているのだが、作品を全部通して読むのは初めてなので、よくわからない。

 

共産党関係の用語の統一もきちんとなされていない感じ。人民委員会議議長という言葉をつかったり、首相といったり、またその両者を並べてみたりと、どうも読みにくい。基本的な語彙の勘違いもみうけられる。本書での注の付け方や表現も乱雑だ。巻末の参考文献とうまくリンクされていない。

 

もう一つは、本書自体が、著者がかなり昔に書いた論文と今回の書下ろしの部分の混合物だという点だ。重複する部分がかなり見受けられる中、この両者をつなぐメッセージがうまく織り込まれておらず、読みにくい。最後にはレーニンのミイラ化そしてfedrovの話まで出てきて面白いのだが。

 

「選書」というのは、どの程度の読者を対象とするのかはあまりよくわからないのだが、やはりこの作品が扱うテーマは特異な領域。ロシア政治史さらには宗教史などについてある程度の鳥瞰図を与えずに、この作品を最後まで読めというのは、一般の読者にはなかなかの苦行だ。とくに、この古儀式派については、あまり日本では紹介されていない。古儀式派、分離派、正教以外の霊的キリスト教派などが五月雨式に登場するので、何らかの整理をした工夫が欲しかった。

 

と、素人の眼からみた勝手な注文を多数付けさせていただいたのだが、本書の基本的なモチーフは魅力的。

 

大胆に捨象してまとめてみると、ロシア正教の改革により、17世紀半ばに分離派(古儀式派)が生み出されたのだが、これは正教と対立する位置にあり、その正教がロシア・ロマノフ王朝と結びついたため、帝国内の反対派とならざるを得なかった。ただこの古儀式派は帝政下では公然とは認められなかった。その中でモスクワの北東部の地域に住み着いた信者たちが、ブルジョアジーとしてロシアの産業(繊維や金属)の担い手としての存在を徐々に固めることとなった。その中で自然発生的に生み出されてきた集団的意思決定機関が、1905年の第一次ロシア革命時のソヴィエトにつながった。また財を成したこの古儀式派が、帝国への敵対者として、萌芽期のロシアのマルクス主義運動や1917年2月革命時の臨時暫定政権への人的・金銭的な大きなパイプとなっていたというのだ。

 

この古儀式派と政権を握った共産党との関係もたどられていく。従来のこの両者の関係はもっぱら、無神論をモットーとする共産党による正教の苛烈な弾圧という大きな枠組みの中に包含されて無視されていたというのだが、そこには一方的な弾圧だけでない、もう少し込み入った関係が存在していた。この関係がもっぱら登場人物の宗教的な背景をたどることによって語られていく。

 

 

魅力的なのだが、あくまでも試論だろう。本書の叙述はあくまでも登場人物の古儀式派につながる宗教的や地理的な背景を指摘するだけにとどまっており、この共産主義イデオロギーと古儀式派が共鳴し合う歴史的な構造がわかり易く整理されたとは言えない。僕は、このボルシェヴィキ内での、いわゆる「建神派(godbuilders)」に前から関心があるのだが、本書でも若干の言及はなされている。