ここ2-3年どうも気になっているのがcritical race theory(CRT:批判的人種理論)だ。近年のアメリカでは学校教育を巡ってこの問題が大きく取り上げられている。いったいこの問題とは何か?日本でも福井義高氏がわかりやすい概観を昨年産経新聞に載せていた。

 

 

 

この関連で、一昨年「Cynical Theories」という作品を読んだが、この共著者の内の一人が最近出した「Race Marxism」がこのCRTの問題を正面から取り扱っている。CRTの定義やその実態、その歴史的な発端やその変貌の経緯や背景が詳しく取り上げられている。

 

この作品が類書や「cynical theories」と異なるのは、CRTを明確にマルクシズムと捉えている点。だからタイトルが「Race Marxism」、つまり「人種マルクシズム」となっている。

 

どうもこのタイトルには違和感を覚えた。マルクス主義といえば、基本的には、下部構造(経済関係)が上部構造(意識)を規定するという経済決定主義と理解するのが一般的だろう。そこで「人種マルクシズム」という言葉はどうもおさまりが悪い。CRTが社会の基盤からの転覆を狙う左翼的な言説であることは言うまでもないが、これははたしてマルクシズムといえるのだろうか。というわけで、この作品を取り寄せて読んでみた。

 

この作品、読み始めて驚いたが、実はかなり読みにくい。文章がこなれていないのだ。editorがcheckしたのだろうか。文章のつなぎもわかり難いし、むやみに長くなってしまうところも多々ある。CRTの原典自体がわかり難い言葉や論理を多用している。まいったなと思い、youtubeをチェックしてみると、作者自身がこの作品の解説をしているのだ。Youtubeでの語りを聞いてみて分かったのだが、おそらくこの作品は口述筆記なのだろう。

 

 

 

まいったなと思いながらも、一月かけてじっくり読んでみたのだが、読後感としては、マルクシズムの議論構成や発想の特徴についての解説をこれだけ集中的に読んだのは久しぶり。何十年ぶりだろうか。登場人物もほとんど知らない最近のCRTの提唱者からマルクーゼ(!)に始まり、グラムシ、ルカーチ、フランクフルト学派、さかのぼるとルソーやヘーゲルにまで多岐にわたる。

 

というわけで、資本主義の成功に直面したマルクス主義の失敗とその変貌が詳しく取り上げられる。そのなかで、さまざまな初耳のターミノロジーが飛び交う。古典的マルクス主義、Vulgar marxism(粗野なマルクス主義), neo-marxism(新マルクス主義)、cultural marxism(文化マルクス主義), identity marxism(アイデンティティ・マルクス主義)という新手の言葉が頻出するのだ。それぞれの言葉が、原典を引用しながら、詳細に解説されていく。

 

経済的生産関係から文化的生産関係への分析と実践の力点のシフト、労働者から様々なminorityへの革命の担い手のシフト、白人種という財産 (property)という視角, マルクス主義の弁証法に色濃く影響された紛争論(aufhebenからintersectionality)、理論と実際の交錯に貫徹するCRTの権力論(プロレタリア独裁に変わるものとしての批判的人種理論家による独裁), リベラルデモクラシーの様々な言葉や概念の意味の転覆と倒立、そして社会転覆の後の見果てぬユートピアへの憧憬(マルクスもCRTも転覆の後に来るものについては語らない)。古典的なマルクス主義の基本的な骨格は、どれもが時代への対応に伴う変貌をとげながらも、その基本的な方向性を変えることなく、現代のCRTにそのままつながっているというのだ。

 

CRTがマルクス主義かどうかは、つまるところは、マルクス主義をどう定義するというところに帰着するのだろう。というわけで、「CRTがマルクス主義かどうか」という議論は本質的にはどうでもいいのかも。あくまでもアメリカの文化的な文脈のなかでマルクス主義という言葉が持つ強い否定的なニュアンスを利用するために、この題名が選択されたのだろう。

 

問題はCRTが、その本質を隠微に隠しながら、現代の文化的な組織やビジネスを乗っ取りつつあるということだろう。