とうとう読み終えた「薔薇の名前」。いろいろ気になった思いを雑感として何度か垂れ流してきたが、ここでひとまず総括。
英訳を主にして読んだのだが、日本語で読んでも問題なし。日本語の翻訳自体が大変な労作であることには疑いがない。さらには、もともとの本作品の由来自体が、ラテン語で書かれた作品がフランス語に訳され、それをエコ自身が口語のイタリア語に直したという二重三重のふるいをかけた設定になっているわけで、このどの訳を読もうが、それ自体にあまり意味はない仕掛けになっているのだ。
また、全編、引用並びに借用で成り立っている作品。引用・借用元を探し始めると、ページは進まない。この永遠の循環運動に入り込むこと自体には、それなりの面白さはあるのだろうが、終わりが来ないのだ。どの程度、この知的暇つぶしに付き合うのかは、読者しだいということになる。
ミステリーとして読むと失望する読者もいるだろう。いわゆるミステリーの紳士協定というかルールは徹底的に無視されて、ホームズ役のウィリアムの役回りも、断片としての謎の解読にとどまっており、全体を通してみるとピエロの役回りなのだ。ただ、断片としての謎の解読も、弟子アドソの何気ない直観に依拠することが多く、密室や迷路さらには暗号の謎の解読もいちおう説明はされているのだが、どうもわかり難い。僕にとっては、ウイリアムは名探偵というより、近代の啓蒙主義の直前で、立ち尽くす最後の中世人の姿。その当人の足場は中世と近代の双方に引き裂かれ始めている。
「ヨハネの黙示録」や「正統・異端論争」「異端審問」「教権と俗権」などの本書のモチーフだが、どれも事件そのものの解明には直接の関係はない。あくまでも、場の雰囲気を盛り上げるため、さらにはページを稼ぐための小道具なのだ。この小道具にどの程度共感というか感情移入が出来るかがカギとなる。
とはいえ雰囲気に接近するために、ネットでサーチをかけ始めると、泥沼に入り込んでしまう。どこかで割り切らないと。というわけで、読者を選ぶ作品であることは間違いない。ただこの日本語訳、いまだに文庫化されていないのだ。
