時代小説というのはあまり読まない。理由としては、そこに描かれているのが、現代人というか、その作品が書かれた時代の人間だからだ。舞台をある選ばれた時代に仮託しただけであり、舞台でうごめくのはもろ現代人ということであれば、一言でいって興ざめだ。僕の味わいたいのは、時代のモティーフを反映した人物のそれぞれの時代の拘束の中での躍動なのだ。時代小説の舞台で、この拘束を無視して、近代人の悩みや疎外や恋愛感情が現代語でめんめんと語られても、何とも言えない違和感を感じるだけだ。というわけで、逆説めいた言い方になるが、すべての時代小説は究極的には現代小説なのだ。

 

今回は、今度鶴岡周辺に山登りに行く予定があり、はたとこの地域には全くと言っていいほど土地勘がないのに気が付いた。なにか読んでみようと思い探してみたのだが、鶴岡といえばいうまでもなく藤沢周平だ。彼の作品は、寡聞にして、「一茶」しか読んだことがない。さて鶴岡を舞台にした作品はあるのだろうかと検索してみると、これが結構ある。読みやすそうだということで、選んだのがこの「春秋山伏記」だ。

 

ある雑誌にシリーズで連載されたもののようだ。主人公は大鷲坊なる羽黒山出身の薬師神社の別当だ。神社の別当である山伏という存在は村の中で一種スーパーマン的な役割を演じるのであるが、その部分が過度に強調されることもない。むしろ、本作品の狙いは、この村という共同体の裏表を描くことにあったのではないかと思われる。

 

全部で5編の作品が収められており、季節の移り変わりとともに話は展開する。それぞれの篇で、事件が持ち上がるのだが、最後の人さらい事件を除くとどれもたわいもないものだ。特徴といえば、村という共同体に異分子が入り込み、村のバランスを崩すという系統の作品と村の表面上のバランス自体の背後にうごめく人間の業と階層分化を扱ったものの二つに大別できるだろうか。

 

問題は解決するのだが、その種明かしが大上段からなされることはなく、むしろ淡々と問題の発生とそれに対する村人の反応が描かれていくのだ。この淡々さに、藤沢周平の村、さらには故郷に対するアンビヴァレントな思いが投影されているといったら言い過ぎだろうか。この淡白さこそがこの作品の特徴だろうか。称賛や弾劾するでもなくましてや戯画化するでもなく、淡々と藤沢によって「思い出された」村。