「インドネシア大虐殺」、タイトルが強烈だ。これまでは、あくまでも二つの政変もしくはクーデターとして語られることが多かったような記憶がある。それにはそれなりの事情があったことが本書を読めば推察できる。僕にとってもこれらの二つの政変は子供のころのかすかに遠い記憶の彼方に残っているような気がする。

 

ただ様々な諸事情からだろうか、どちらもその基本的な構図がわかりやすく日本の読者に語られたことはあまりなかったような気がする。日本だけではなくインドネシアでも事情は変わらなかったのかもしれない。1980年代半ばにジャカルタを訪れた時に、軍事博物館(旧ヤソオ宮殿;ヤソオはデヴィ夫人の自殺した弟の名前だ)を見学したことがあったが、飾られている一連の歴史的な絵画から想像するに、相当なpolitical sanitisationがなされているようで、この国で歴史を語ることの難しさに苦笑を覚えた記憶がある。

 

ただこの時代のインドネシアについてはデヴィ夫人の存在もあり、女性週刊誌も含めてそれなりの関心が日本でもあったようだ。実はこの事件の前後のインドネシアの混沌とした複雑な政情を舞台としたミステリーも私の知る限り二つある。ところがどういうわけか、このどちらも非常にわかりにくい作品なのだ。今ではおそらく読むに堪えない作品だろう。

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

さて本書だが、この二つの政変の構図とその背景がわかりやすく説明されている。特に、「9・30事件」については、PKIの黒幕としての関与を示唆する公式見解、軍内部の内紛説、スハルトの陰謀説、欧米の陰謀説、中国共産党の関与説がそれぞれ説明される。ただその本当のところは不明のままだ。おそらくこれらの諸要因が複雑に絡まる中で、偶然と当事者スハルトの決断がその最終的な展開に大きな影響を与えたのだろう。

 

後者の「3.11政変」については、侵食されるスカルノの権力基盤という観点から語られるのだが、この部分については、今一つ物足りない。ここはスカルノが進めた「民族主義」「宗教」「共産主義」の3つのバランスの上に基づく「ナサコム」という特異な政治運営の矛盾と限界やインドネシアという巨大な人工的な多民族国家に触れずには、どうしても叙述が平板になってしまうのは仕方がないのかもしれない。一般向けという新書ではスペースが限定されてしまう。

 

大虐殺については初めて知った部分が多い。この大虐殺に至るメカニズムとそれを可能にしたインドネシアの政治風土の解明に、もっとスペースが欲しかった。「敗者たちのその後」は、立場により、評価は分かれるが、中身自体にはあまり新味はない。政治的な大きなうねりに巻き込まれた個人の運命ははかないものだ。

 

さて、本書の主題とは離れるが、「あとがき」では団塊の世代の特有の思いがつづられている。この種のノスタルジックな思いへの評価は避けるが、これが著者をして本書を執筆させた大きな理由であることがわかる。