あれ、こりゃちょっとmisleadingなタイトルだったのでは。

 

片山氏のもともとの専門は。日本の「右翼思想」だったので、この作品もタイトルをみて、いわゆる「皇国史観」についての作品だと思って読んだのだが、だいぶ予想とは異なる。

 

「国のかたちを作るために新しく創作され続け、意味づけ直されてきたのが天皇なのです。天皇はずっといた。それは本当です。しかし、天皇がずっといるからこそ日本は続いてきたというのはどうでしょうか。これはかなり創作であり解釈でしょう。しかもかなり近代の創作であり解釈でしょう。」

 

「そしてそのあとも今日まで結局ずっと皇国なのです。」

 

「日本は、天皇の居る国という意味で、皇国であり続け、天皇の居る意味や、その意味を持続させてゆくための仕掛けもまた、時代に合わせて考案されたり、前の仕掛けが蘇ったりしてゆくことでしょう。天皇は歴史性を存在の最大の根拠とするゆえに、天皇が意味を持って今日もあるということは、すなわちそこに何らかの皇国史観が生きていることになりましょう。.....多彩きわまるヴァリエーションを奏で続けていくことでしょう。...皇国の滅ぶ日まで、私どもは私どもの皇国史観を探求し続けるのです。」

 

最後の「第十回」のところから、重要な部分を抜粋してみた。

 

そう、これは昭和十年代というか1930年代に猛威を振るった歴史的な存在しての狭義の「皇国史観」についての作品ではないのだ。もっともこの狭義の「皇国史観」の源流ともいうべき水戸学、昭和10年代を特徴づける「天皇機関説」ならびにその前段階ともいうべき「南北朝正閏問題」そして平泉澄なども取り上げられているのだが、著者の関心はこれらの狭義の「皇国史観」のディテールとその特徴を取り出すことにはない。

 

むしろ、天皇機関説と天皇主権説(親政)という2つの「理想型」を切り口として、江戸以降の歴史を「天皇の位置付け」という観点からわかりやすく振り返った作品ではなかろうか。そういう意味ではちょっと誤解を招くタイトルだ。またスペースも限られているため、議論はどうしてもあまり深められることはなく、若干「与太話」めいたところも出てくる。というわけで、筧克彦の「面白さ」やマルクス主義の発展段階説の陰画としての「平泉史観」の面白さ、天皇制否定に起因しながらも最後は天皇制の拡大と強化の自家撞着に落ち込んだしまった網野史学には軽く触れられる程度だ。

 

「平成精神史」に続き、このところこのテーマに関連した著作が続いている著者だが、どうも最初の起点からとっぱができないようだ。次作を楽しみに待ちましょう。