when one gives up on life, the last remaining human contacts are those you have with shopkeepers.

 

houellebecqの三作目(四作目?)だろうか。このところ立て続けに彼の作品を読んでいる。最新作のsuccessionは別だが、直前に読んだAtomisedと同じように、この作品も舞台は2000年前後、正確には2000年末から2002年までの約1年半が対象だ。そう、この時代はまだ使われている通貨はフレンチフランなのだ。


最初のシーンからhouellebecq節が満載だ。シニシズムといっていいのだろう。そしてタイへのpackage tourへと舞台はめまぐるしく展開する。でもタイはあくまでも借景以上の存在ではない。風景は失われた場所としてのorientalismの象徴として存在するのだが、登場するタイ人は女性ばかりで、そのすべてはprostituteばかりだ。彼女たちの体やその動きは多くを語るが、言葉を発する存在としては意識されていない。というわけで、会話と呼べるのかどうかは疑問だが、言葉の交錯の中に登場するのは21世紀のフランスを象徴するフランス人ばかりだ。

 

そこでの偶然ともいえる出会い(radiant exception)から話は大きく展開する。どういうわけか、主人公は現代世界の資本主義の象徴ともいうべき海外(中南米やタイ)でのsex package tourの商品開発に関わることになるのだ。この商品化の背景に潜むのが袋小路ともいうべき現代西欧世界における人間関係なのだ。いってみれば啓蒙主義そしてヒューマニズムの論理的な延長線上に待ち受けていた極北の砂漠といっていいだろう。現代の西欧は、口には出さないものの、熱帯の気候とヒューマニズムに毒されていない人間関係、そしてそれを象徴する肉体を必要としているのだ。この満たされない欲求を具現化し資本主義の利潤のコードに変換させるのが、婉曲な言葉という「friendly tour」なのだ。そしてそこでの最大のターゲットは恥と悩み(shame and worry)を抱えるドイツ人なのだ。そういえば2000年代の半ばのタイのプーケット発のフランクフルト行きの飛行機って異様な雰囲気が充満していましたわ。


この商品開発はスムーズに進み市場に売り出されのだが、そこには二つのある意味では予想された障害が立ちふさがる。一つは世界各地で頻発するテロ、もう一つはヒューマニズムのきれいごとに依拠するフランスのメディアだ。この二つが究極のところで、主人公とそのパートナーの「実現することのない夢」の前に立ちはだかることとなる。そして主人公は本書の出発点でもある、もう一度逃れようのない現代の存在状況に引き戻されるのだ。


Houellebecqは絶望のストーリーテラーだ。ここでは前作を特徴づけたpedantismは影をひそめ、わかりやすい素材の上で彼の世界観が展開されていく。本書でも満載のpornographicなシーンは好悪の分かれるところだろうが、Houellebecqにとっては肉のぶつかり合いこそが瞬間の幻想とはいえ一番リアルな存在感なのだろう。