処女作で終点にたどり着いていたRJP

 

ちょっとしたきっかけで、このところ立て続けに、Ruth Prawer Jhabvala (RPJ)の作品を再読中。1990年代前半に一度読んだ作品、つまり彼女がインドに距離を置き始める時代の作品、を主に再読しているのだが、どれも新鮮だ。どれもplot自体を忘れているのは御愛嬌だが、様々なディテールとそこに描かれるインド人たちのパーソナリティがどれも新しい輝きをもって浮かんでくるのはなぜだろう。

 

この作品、To Whom She WillはRPJの処女作のようだ。出版されたのは1955年。RPJの最近出版されたAnthorogyAt The End of Te Centuryに、AnitaDesaiがRPJからこの作品を出版直後に謹呈されたことを素晴らしい文章で回想している。1955年というとRPJはまだ28歳、インドにわたってわずか4年弱、そして彼女がドイツから英国にたどり着いて、わずか15年強。これほどの短い期間で英語をここまで縦横無尽に操り、この時点ですでに自分のスタイルを確立していることに驚かされる。そういえばConradもポーランド出身だった。その上にわずか3-4年の滞在で、インドという不可思議な存在の原型をここまでディテールの描写を通じて抽出し、それを喜劇、風刺そして恋愛小説の不思議な混合物という形で芸術的に昇華させているその力量には今さらながら驚かされた。決まり文句になってしまうが、祖国を持たないユダヤ人の視点がなせるわざなのだろう。

 

本作品は処女作なのだが、高い完成度を誇っている。ここでもストーリーはいわゆるsuitable boy/girlをめぐる話なのだ。この一種の見合い結婚をめぐる話はインド小説の定番なのだが、当時のRPJにも強烈なショックを与えたのだろう。今ではどうなのかわからないのだが、インドの見合い結婚は一種の国民病というか国技として洗練の極致に達しているのである。宗教、カースト、出身地、学歴、英語力、顔や肌の色(インド人の肌の色は一部の人を除けば、日本人から見ればほとんどの人が「黒い」のだが)、その中でそして社会階級と地位(status)などの変数が幾重にも絡まりそして越えようのない断絶の線を引いているのだ。そこにお金という近代資本主義が容赦のない圧力を与えている。この流れに拍車をかけているのが、インドの既婚女性たちの想像を絶する世俗的な価値への傾倒と聖との奇妙な共存なのだ。

 

本書では、一組のカップルの恋愛が主題として取り上げられている。1955年に20歳と仮定すると、独立後に人格形成をとげた若者である。ただどちらの家系からも認められることのない関係なのだ。もともとがこの関係自体、はたして恋愛と認めることが可能なのかどうか自体も定かでもない、あやふやなレベルの関係なのだ。これはインド以外ではおそらく小学生から中学生のレベルでの淡い好感をもちあう男女関係としかとらえられないものだ。この二人の関係に既成秩序と世俗的な価値への反抗の萌芽を見出し、ドタバタを繰り広げるのがこの二人の周りの所帯をもった親兄弟たちの親族たちなのだ。この親族内そして親族間の関係が何人もの個性的な人物の描写を通して描かれていくのがこの作品の肝だ。とくに成人女性たちの強烈なパーソナリティの描写が見事だ。

 

RPJの描写は決して笑いを狙ったものではなく、淡々と様々なインドのディテールを積み重ねて行くのだが、結果としては聖と俗の価値の倒錯といつの時代も変わらないグロテスクな人間描写がそこには延々と繰り広げられることになる。結果として読者は「笑い」に誘われるということになる。サリー、指輪、イアリングに代表される個人の所有物の細かい描写、住んでいる家や地域の描写、食事、refreshment, 肌の色、出身地、使用人などのインドに特有の小道具やディテールを縦横無尽に配置した描写は、RPJの並々ならぬ観察眼の鋭さを証明している。dust, heat, I tell you等の用語が登場人物によって繰り返し使われ、これらのディテールが有機的に関わり合い、この小説の舞台の独特の雰囲気を作り上げているのである。私にはこの雰囲気のほんの一端に遠い昔に触れた記憶が思い起こされる。

 

そう一種のromeo and julietのインド・ニューデリー版なのだ。注意深く読んでみると、このストーリーは9月に始まり10月の初めには終末を迎えているのである。わずか一か月にも満たない凝縮された期間の中の起承転結なのだ(もっとも「起」はあまり語られていないのだが)。ところがさすがにインドを舞台とした話だ。そこには「悲劇」への昇華を思わせる様相は最後まで姿を現さず、インドの現実が主人公たちを押し流していくだけだ。押し流していくという言葉も言い過ぎなのかもしれない。本書は一種のトータルな陶酔の描写で締めくくられている。


そしてRPJもこの時点ではこの陶酔に酔わされているかのようだ。ある意味ではRPJは処女作で終点を見てしまったようだ。陶酔はそう感じるからこそ陶酔であって、時間の経過とともに、そう感じなくなってしまえばもはや一種の耐えがたい茶番だ。