あまりにも人間的な!

私のCDlibraryにもカラヤン(karajan)のdiskはいくつかありますが、その数はほとんどがDG時代のもので約10枚ほどで全体の1%以下です。私には様々な指揮者の演奏の違いを知覚するほどの耳はなく、karajan自身のあまりもの露出度と一部のcriticの影響もありいつも避けいていた指揮者でもあります。ただ2000年前後に読んだ読んだklempererの伝記Otto Klemperer: Volume 1, 1885–1933: His Life and Times (Otto Klemperer, His Life and Times)が非常に面白く、その流れで2000年に購入した作品でもあります。ただ相当に長く(全体で約800ページ)半分ほど読んでお蔵入りになっていましたが、このたび無事読了。重厚な作品です。
 

 

 

 

この作品はいくつかの角度から読むことができます。第一次大戦前に生まれたある一人のオーストラリア人の時代の荒波との格闘。その時代の荒波には第一次大戦後の社会の変貌とその後のナチズムが含まれます。第二に、中欧の社会での音楽(文化)政治の実態です。クラシック音楽が娯楽と文化の中心であった中央でmusik theaterと指揮者の存在は今では想像もできないほどの重要性を持っており、その中で何の背景やコネもなかった一人の青年がその地位をどのようにして築いていったという側面からのbildungsromanです。ここでは人間関係と芸術の相克が提示され、特にfurtwanglerとの確執が詳しくたどられます。80年代のkarajanとベルリンフィルとの確執は「marriage of convenience」が醸し出す腐臭の側面が生々しく語られ、芸術に潜むegoと利害の相克がドイツの文脈で語られていきます。ドイツ人の神経は並大抵のものではないのです。第三には新しいメディアへの対応。テープレコーダー、LP、CDそしてlaser discの登場に積極的に対応したkarajanの姿とその背後にある芸術哲学。第4には詳しいkarajanの演奏やdiscの解説。この部分では他の様々な演奏家(オペラ歌手)も登場し、karajannの演奏スタイルの変遷やその背後に存在するkarajan自身の芸術観の核やその変容が詳しく語られておりマニアにとっては一番の関心事でしょう。karajanのナチ党員の経歴についても相当なページがさかれていますが、そのセンセーショナリズムといまでいうfake newsの横行が明らかにされており、この点については納得のいく「凡庸な」結論となっています。


karajanのstoryはinternetの登場の直前に閉じられます。karajan自身は映像への志向を強めるのですが、netの登場によるその後の音楽産業の変貌を予想することはできませんでした。そして音楽産業も大きく変貌しました。もはや対立関係にあったレコード会社はそのほとんどが合併の波に襲われbrandこそ残っていますが、もはや単一の持ち株会社の管理下にあり、karajanが得意とした戦術を展開する余地は存在しません。大衆社会の文化的な嗜好の多様化と伝達メディアの変化によりCDもその販売枚数は激減し、karajanのdiscの相当部分KARAJAN EDITION -COMPLETE、The Complete Recordings on DG & DECCAが信じられない値段で売買されているのです。巨匠karajanも時代の反映にしか過ぎなかったのです。この膨大なdiscの渉猟からおそらく感じられるのはどうしようもない時代の変化のすさまじさとそのつかの間の一時性なのです。art is long, life is shortとはよく言われるaphorismですが、実はartの表現手段の生命もshortなのでは。


最後に一言。いつもながらやはり英国人のこの種の作品はわかりやすく面白い。視角や映像芸術の創造という意味では英国人は概して二流以下ですが、消費者向けにわかりやすく語らせたら超一流です。とはいえ本書の英語の文体は著者独特のもので比喩と引用が多分野にわたり縦横に張り巡らされており、それなりの基礎知識が必要とされます。ただ分かりにくい英語ではありません。巻末の詳細な索引(人物と曲目についてそれぞれ)は非常に役に立ちます。