20年ほど前、ベルリンにオペラを見に毎年通っている時期があった。いつも10日ぐらい滞在するのだが、3つのオペラハウスと美術館を回るだけで、手いっぱいで、ベルリンフィルに足が向くことはなかった。人気のオケで切符の入手が大変と聞いていたからだろうか。

 

ある時、ポツダム広場に出かけた時、どういう風の吹き回しか、切符が買えなくても見学くらいしてみるかくらいの軽い気持ちで、出かけたところ、あまりいい席ではないにせよ、コンサートの切符が期待に反して買えてしまったことがある。悲しいかな、指揮者が誰だったかは覚えていない。zimmermanのrachmaninofピアノ協奏曲第3だったような気がする。中に入って、ホールの作りと音に驚いた記憶がある。

 

さて、本年の最後の読書はこの作品となった。新書というフォーマットの限界の中で、このオケの19世紀後半からの歴史が指揮者の人事も含めて硬軟取り混ぜてわかりやすく語られている。あくまでも教科書的な意味で。ただ本書では、ナチ時代のベルリンフィルには、フルトヴェングラー個人を除くと、あまりスペースが割かれていない。

 

オケは文化装置に過ぎないのだが、なまじドイツ文化という看板を背負っているため、それ以上の政治的、社会的存在足らざるを得ないのがベルリンフィル。米ソの間の文化闘争の道具としてのベルリンフィルも存在するのだ。

 

カラヤンという毒のある独裁者のやりたい放題が表ではいつも取りざたされてきたが、そこにはドイツ独特の闇が存在する。文化政治は芸術という錦の御旗の下で、政治がグロテスクにかかわり、そこに利益が絡んでくる。一方で、この利益こそがかろうじて「便宜上の結婚」の継続を可能ならしめてきた。そのわかりにくさとややこしさは想像を超えている。そこに現代ドイツの過激なポスコロの制約がかかわってくると、もはやこの程度のトーンの語りで済ましておくのが限界なのだろう。オケの「歴史認識」なんていうのがまじめに取り上げられるほどなのだ。

 

第7章の「模索期」は、混乱しているベルリンフィルの現在が取り上げられている。たしかに、いわゆる社会との接点は増えているのかもしれない。しかし、どうも陳腐だな。