私は古いタイプの人間である。

悪は、どんな事情があろうとも、悪であると考えるタイプだ。


最近のアニメ・特撮ヒーローものは、やたらにややこしい。

変に悪役がかっこよく、悪の事情を織り交ぜ、主人公のヒーローキャラに笑いのエッセンスを加えるといったものが多い。

どの年代をターゲットにした番組なのか、本当にはっきりしない。

悪役はどこまで行っても、悪く・怖く・残酷でなくてはいけない。

現状の主流は、悪役に変な魅力をもたせ、正当性を醸し出し、一歩間違うと悪役を応援する状況になる。

果たして、それが正義であろうか。


悪がはびこり、正義がそれを打ち、悪が滅びる。

そういった、シンプルな番組を子供たちが見て、悪いことはダメなんだ、弱い人を助けないと、強くて正義の人にならないと等々を考えるのでは。

悪の事情を学んだ子供たちは、幼い時から自分の悪さを正当化する知恵がつく。

だら、親を親とも思わない、先生を先生と思わないような、行動や発言を繰り返す子供が増える。


幼年期に見るテレビ番組の影響を非常に大きい。

自分自身で何も考えることの出来ない幼年期は、とにかくモノマネからスタートする。

親の真似、兄弟姉妹の真似、先生の真似、友達の真似、中でもテレビ番組のアニメ・特撮ヒーローの役割は大きい。


分かり易い、正義の味方の出現を期待したい。


好きこそ物の上手なれという言葉があるが、手段を目的(楽しみ)まで高めた時、物凄いことになる。

たとえば、勉強が好きで先生もしくは教授の話を聞くのが楽しくてしょうがない場合、結果的に賢くなる。

ゴルフの練習が大好きで、練習ばかり繰り返す、結果的にゴルフがうまくなる。

目標に対しての手段・努力は、人によっては大変な苦痛を伴うが、手段自体が目的であり、更に楽しければ、まったく苦痛はない。

日常的な事で言えば、ドライブが大好きで長時間運転した結果、観光スポットへ到着し、帰りのドライブも楽しいとなれば、総てに苦痛は無く最高の1日となる。


こと最近は目的・目標・結果などが重視され、手段や過程を楽しむ考え方が欠如している。

目標に向けて努力する姿は、非常に素晴らしいが、目標を達成した時、その人に更なる目標を見据えるモチベーションがあれば問題はない。

手段・過程を楽しむ人間に天井は無く、目標とするゴールも無く、無限の可能性と成長が期待できると私は思う。


人生を楽しくことは、手段・過程をどれだけ楽しめるかで、なぜなら、到達時の満足・喜びを味わう時間より、手段・過程の時間の方が圧倒的に長いのだから。

私は仲間と行動する時に「目的の為に手段を選ばない」ではなく、「手段の為に目的を選ばない」と言っている。

大まかな目的の方向性はあるが、手段・過程の時間を考えれば必然であり、手段の楽しみ方を考えた方が、絶対に楽しい。


手段・過程を楽しみ人間が多くなることを祈る。



最近、学校活用での親の介入の酷さには、呆れるばかりである。

学校側の親への介入供与とも考えられるが、親側の甘さも十分にある。

時代背景から、危ないから、心配だからなど、しょうがないとは思うが、異常である。


運動会、部活、課外活動など、とにかくPTAの介入、クラス役員の介入が酷い。

小学校ならまだしも、中学校でも物凄い。


本来、先生が管理し、生徒が運営をするのが当然であるが、父兄の顔色を伺い、意見を採用し、子供の為ではなく親の発表会になりはてる。

苦笑いしかできない。


親の介入と先生の権力低下により、同学年内の付き合いに固執する形となり、年上や年下とのコミュニケーションチャンスを失う。

結果的に総てを先生もしくは親、TVマスコミなどからの情報に頼り、人の痛みを知らない偏った考えの人間となる。

異年齢との付き合いがあれば、良いことも悪いことも先輩に教えられ、ものの限度と可能性を知る人間となり、それを年下に敬称することが出来る。


安全でない時代ではあるが、もっと自由に、もっと子供の可能性に期待した、学校運営が出来ないものか、いや、昔に戻れないものか。


やることがなくなった、教育委員会・文部省が2学期制をやってみたり、季節はずれの春の運動会をやってみたり、ゆとり教育とは名ばかりの、子供をモルモットにした、へんてこ教育実験を繰り返し、今もつづけている。


季節感のある、先生に威厳のある、良い意味での子供に自由な教育に期待したい。