(S/N 20260830 / Studio31, TOKYO)
除湿機が年中回っている地下室に、段ボール箱に入ったカセットテープが50本ほどのある。通して聴き直してみたいが、再生装置が最早壊れてない。安いラジカセならまだ手に入るが、そこはそうではなく、昔のようにウォークマンで聴きたい。
もしかしたら、水口イチ子の四十年前の声もどこかに入っているかもしれない。
【Billy J. Kramer with the Dakotas - From a window】
(S/N 20260829 / Studio31, TOKYO)
夏の初め、可愛げな淡い緑の実を付けた庭の無花果は、いよいよ秋に至り、熟して、色濃い赤紫になった。飛ぶ鳥に露呈せぬ位置に地味に実を結ぶのは進化の証か。熟れ加減を見極めながら収穫の時を待つ。
そして昨日、遂にその日は来た。鋏を使って丁寧に摘み取る。青みの残るヘタ以外はすべて食用となる。
アラビア原産のこの果実 —— 中国を経て伝来したようだ。唐柿などの古称にその由来が伺える。儚く薄い表皮の下に濃い乳酪のような食感が潜む。謙虚に甘味を纏った種子の口当たりは、苺のそれよりも野性的だ。
海外で好まれる他の果実と比べ、柿、石榴、杏子、無花果など、日本に昔からある果実は、どこか無性に日本人の気性と重なるものが多い気がするが...。
【John Renbourn - South Wind】
(S/N 20260825 / Studio31, TOKYO)
八月の海。
太陽は南中を過ぎたようだ。
砂混じりの風が強い。
カー・ラジオを点けると、AORやシティポップがいつでも聞こえていた頃のことだ。
防波堤下のモータープールに駐めた水口イチ子のホンダ・Z —— 13年目の空冷エンジン —— にとって、夏は、ぼく達と違って苦手な季節になっていた。エンジンの息づかいは大分荒くなっていたし、ボディの至るところにサビが浮いていた。ナンバープレートを見なくても、塗装の具合を見れば、普段から海辺を走らされている車なのがすぐにわかった。
「こうなると、もう中古車とも呼べないわね」とイチ子が笑う。
*
車なら家まで五分ほどだから、Zが息切れする前に家に戻れる。
ボードはホースで水を掛けて塩分を流してやるのに、Zはそのまま雨待ちのテイ。エア・フィルターだけは、月に二、三度はずし、掃除機を掛けるのだけは励行しているようだった。
*
夏休み中、海に出た日は、帰宅後、車庫の水道でシャワーを何度か浴びるだけで、ふたり共いち日中ほとんど水着のままで過ごした。
【Stephen Bishop - On And On】
(S/N 20260822 / Studio31, TOKYO)
水口イチ子は、今時の女子にしてはめずらしく洋裁ができた。それは、生前同居していた祖母に仕込まれたと聞いた。
中学生になると、イチ子は祖母に連れられ、生地屋のクリアランスセールで端布を買い集め、夏のワンピースやカジュアルなスカートの多くを自作したという。
多少洋裁が出来る人が見ると、手作りか既製服かは一目瞭然らしく、年配の婦人から「あら、ご自分で縫われたのね」などと声を掛けられているのを何回か見たことがあった。
この夏は、カタルーニャの画家ミロの絵に似た色使いの生地で縫ったミディスカートが気に入ったようで、よく着てたっけ。
【The Tributes - You Won't See Me】
(S/N 20260821 / Studio31, TOKYO)
海へ吹く風が肌寒い。
別荘を閉めて東京へ戻る友達の『サヨナラ・パーティー』で騒いで、とんだ朝帰りになってしまった。
海岸通りはひっそりしたまま、大王椰子の並木道には、すでに夏の欠片もない。
この夏もいろんな事があった。
一番不思議なニュースだったのは、L.A.のヴェンチュラに住む —— 子供の頃からよく知っている —— ウェーバーさんのおばさんから、息子のジェイムズが東回りで世界一周の旅に出たまま、この半年以上消息が知れない。まだ、日本に着いていないかと尋ねてきたことだ。
世界を旅する者で、妙な地域に足を踏み入れたがために、つまらぬ物盗りに遭遇して行方不明になる旅行者はニュースにならないだけで、恐らく年間数百人はいるだろう。もちろん、そんなことはウェーバーさんのおばさんへの返事には書かなかったが、今時、半年以上音信不通では、そう疑われるのも止むを得まい。
ジェイムズ・ウェーバー、通称ジャック・ウェブ、身軽な一人旅を好むジャックは、クレジットカード以外はPCもiPhoneも持ち歩かなかった。
旅の途中、思いがけない外国の街から不意に手紙をよこすことがある。彼からの最後の手紙は、去年の暮れ、カトマンズで投函されたクリスマスカードだった。
*
岬の隧道をくぐる頃、海辺の秋が、道の傍らで密かに待ち伏せしているように思える夜明けだった。
【Al Stewart - Year Of The Cat】