きみの靴の中の砂

きみの靴の中の砂

このサイトは "Creative Writing" の個人的なワークショップです。テキストは過去に遡り、随時補筆・改訂を行うため、いずれも『未定稿』です。

(S/N 20251224-2 / Studio31, TOKYO)





 アメリカの年の瀬・新年の祝日は、クリスマスと元旦の二日のみ。しかし、大半の国民は、この公休の前後を有給休暇と土・日の休みで繋ぎ、十日程の連休をとる。

 

 都会では日本のお正月やお盆同様帰省して、祖父母や父母の家に兄弟・親戚一同が集まる。

 一方その間なんの予定もなく、会社にひとり出勤して暦どおりに働く人も少なからずいる  ——  ほとんどは電話番だが...。

 


 

 今年は先週末からクリスマス休暇期間。

 

 しかし、残務処理が続き、やっと今日から遅れて休みに入る人達の遅い帰省渋滞は、今夜、もう既に始まっているだろうか  ——  ハイウェイの遙か彼方まで連なる車の赤いテールランプの光が目に浮かぶようだ。

 さて、聖夜をひとりで過ごすのが決定している人には、誰に気兼ねもなく自分本位に自由自在に計画を立てて過ごせるという特権  ——  無形のプレゼント  ——  が間もなく神様から届く。

 



 

 

【The Beach Boys - Little Saint Nick】

 

 

(S/N 20251224 / Studio31, TOKYO)

 



 

 水口イチ子の仙台に住む祖母の喜寿祝いがあって、イチ子は一週間ほど宮城へ行っていた。五年振りとかの杜の都で従姉達がなかなか帰してくれなくて往生したという。

 

 今日、クリスマス・イヴの午後、イチ子は帰ってきた。

 

 夕方からふたりで近隣百貨店の総菜売場に行って、どうにかクリスマスらしい食材をいくつか調達してきた。

 ツリーは、ぼくが描いたイラスト。絵に描いた餅というのは聞いたことがあるが、とふたりして笑った。

 

 ケーキ売場ではシュトーレンが売り切れていて、代わりに買ったチョコレート・ケーキをデザートに、ある組合の忘年会でもらってきた残りもののオールド・パーをふたりで飲んだ。

 

 いい気持ちに酔った頃、イチ子が祖母から聞いたという『事実は小説より奇なり』のストーリーを聞かせてくれた。

 

 

「長崎の遣欧少年使節は殉教もあって殊更有名だけど、それより三十年程後に仙台の伊達藩が、石巻から出帆させた慶長遣欧使節というのがあるのよ  ——  十五世紀の初め  ——  今から六百年位前の話ね。藩士三十人と船乗り合わせて百八十人ほで太平洋を渡ってメキシコに上陸、陸路大西洋まで行き、そこからスペイン艦隊の軍艦に乗せてもらってキューバ経由でジブラルタル海峡付近に上陸したみたい。そこで藩士半分を残し、お偉方半分でローマを目指してローマ法王に拝謁。数ヶ月後、お偉方達が戻ってきたとき、さて、すぐに帰途に着いたかというと理由はわからないんだけど、そこで二、三年待機状態になったらしいの。そうこうするうちに帰国の準備も整い、いざ乗船する段階になって、どうやら四、五人、残留を望んだ人達がいるんですって。恋人ができたり、病気で航海に耐えられなかったりといろんな事情があったとは思うんだけど...。

 

 日本に帰って来なかったその人達の中に、どうやら祖母の遠縁がいるらしいの。そんなことから話がだんだん面白くなってきて続きを聞いてみたら、彼等が逗留した町の周辺にハポン姓の人達が今では六、七百人いるってことなのよ」

「ハポンって日本ってことだよね」と確認すると、

「そう。日本っていう苗字なのよ。スペイン人にも興味を持った研究者がいて、調べてみると、残留した人達以前の時代には、出生証明書、婚姻証明書、死亡証明書、いずれもハポン姓は存在しないんだって。不思議な話でしょ。しかも、その辺りは昔から長粒種のお米を栽培していた地域らしく  ——  まあ、お隣のバレンシア県の郷土料理がパエリアだからもっともな話なんだけど  ——  ハポン姓の栽培農家では、今でもナエドコからお米を作ってるんですって」

「ナエドコって、あの苗床?」

「そう、その苗床」

「日本式農法なんだね?」

「そう。『スペイン・ハポン協会』というのがあって、ホームページに沢山の写真があるわよ。見てみる?」と言うと、イチ子は、食卓にブック・コンピュータを持ってきてスウィッチを入れた。

「きみ、スペイン語もできたっけ?」とぼく。

「英語ページもあるの、ほらっ。あらっ、速報ニュースがアップされてるわ」

「なんて書いてある?」

「えーと、クリスマス・イヴに協会員の家族に男の赤ちゃんが生まれたということなんだけど、どうやらそれが速報理由ではなくて、七年振りにお尻に可愛い蒙古斑がある赤ちゃんが生まれたということのようよ」

「六百年後の子孫の赤ちゃんだから混血も進んで、顔立ちだって白人のはずなのに、今でも蒙古斑のある赤ちゃんが生まれるの!?」

「そりゃあ頻度は下がったでしょうけど、今でも希にあるみたい。ハポン姓の人達のルーツを示してるっていうわけね」

「ハポン協会の人達にとっては、出自を自覚する貴重な出来事なんだね」

「そうね、それが今日っていうことは、六百年の昔から届いたクリスマス・プレゼントかも知れないわね」

「まったくだね。お金では用意できないプレゼントって、あるもんなんだな」

 

 日本とスペインの時差は八時間。スペインは、今頃やっとイヴの正午。蒙古斑のある赤ちゃんの楽しいクリスマスは、まだまだ続きそう...。

 

 

 

 

 

 

 横浜文化圏ならどこでも手に入る崎陽軒のシウマイ弁当。この紐かけされたお弁当は、県内本社工場謹製の印しである  ——  他の工場出荷分は紐掛けされていない  ——  昨日、イチ子さんが横浜に出たついでに買ってきてくれた。横浜駅東口崎陽軒本店一階のショップで買ったという。横浜の空気に触れた弁当だから心して食べよということだった。

 

 

 

 

 

 

 インスタント・コーヒーもメーカーが違えば味も違うのは当たり前。今まで手を出したことがなかったセブンのコーヒー  ——  いや〜、これはなかなか良いぞ!  ——  ボトルをひっくり返せば裏側に、UCC上島珈琲店とあった。

 

 

 

 

 

 

 先週、『名古屋味噌煮込みうどん風サッポロ一番みそラーメン』というのを食べた  ——  まあそこまでは良いとしよう  ——  今日、購買したのは『サッポロ一番塩ラーメン、まさかのうどん』。一体アタシ等にどうしろっちゅーねん!

 

 

 

 

 

 

 ニューヨークの、とある交差点。

 その一角に古い小さな煙草屋『ブルックリン葉巻商会』はあった。
 店長は雇われの白人中年、名前をオーギー・レンという。

 土地柄、住人は白人も黒人も大人も子供も裕福な家庭に育った者は少ない。よって、強盗、かっぱらい、詐欺、ペテンなどが横行する地区ということになる。仮に生まれも育ちもこの地域で、それでいて現在は真っ当な人間に見える者がいるとすれば、それは現在そうだというだけのことで、過去から今まで正しい人生を歩んできたかどうかとは別な話である。当然、過去を隠蔽すために嘘と作り話で体よく粉飾せざるを得ない人も少なくない。まあ、これがこの地区に生まれ育ち、今もなお暮らす人達の処世術なのだろう。

 

 ブルックリン葉巻商会の目と鼻の先に、妻を銀行強盗の流れ弾で亡くした作家ポール・ベンジャミンが暮らしていた。
 妻を失って以来、納得できるものは書けず、スランプの連続。彼の日常生活は、精々、近くの煙草屋に愛煙するシガリロを買いに行くか、簡単な食料品を調達に出かけるくらいのものであった。

 

 今日もまたオーギーの店にポールが来る。

 オーギーがシガリロをふた箱、いつもどおり手渡そうとすると、今日はひと箱でいいとポールが言う。健康を心配してくれる人ができたんだという。このあたりに住む人達は、とにかく会話のどこかにどうでもいい作り話を盛り込むのが好きである。

 

「ところで、仕事の方は進んでるか?」とオーギー。
「ああ、二日前にニューヨーク・タイムズからクリスマスの物語を書いてくれないかと電話があったんだが、どうもいいアイデアがないんだ。しかも、締め切りまであと四日。なにか面白い話のネタはないか?」
「もちろん、あるさ。山ほどあるさ。そうだ、昼飯をおごってくれたら、いい話を教えてやる」

 

 

 ランチタイム、食堂でオーギーが語る。

 

◎彼の店で雑誌をかっぱらった黒人青年が落としていった財布にまつわる話。
◎その年、ひとりぼっちでクリスマスを過ごすことになったオーギーの気まぐれな行動。
◎財布を返しに行った先のアパートに住んでいたのは、青年の盲目の祖母がひとり。
◎黒人の老婆は、訪ねてきたのを自分の孫だと勘違いする。しかし、声や抱きしめた体格から別人であることはわかっていたはず。もしかしたら、勘違いした振りをしたのかも。

 

 オーギーと老婆のいち日だけの家族ゲーム  ——  孫と祖母になりきり、オーギーが買いに走った料理やワインで楽しいイヴを過ごす。

 

◎やがて、ワインに酔って居眠りをはじめる老婆。その間、オーギーは洗面所の棚から孫が盗んだとみられる数台の新品箱入りの一眼レフ・カメラを見つけ、生まれて初めて一台頂戴してしまう。

◎後日、気がとがめ、カメラを返しに行くと、老婆はすでに居らず、新しい住人は、老婆がどうなったかは知らないという。
◎オーギーはカメラを盗んだ償いに、いち日も休むことのない写真撮影の日々を送ることとなる。

 

 その後、オーギーは、そのカメラで今日までの四千日、いち日も休むことなく店の反対側の角から自分の店の定点撮影を始めた。しかも、そのすべてを日付順にアルバムに整理して...。

 

 

 嘘と盗みをはたらいたクリスマス・イヴ   ——  もしかしたら生涯最後のクリスマスだったかもしれない、孤独な老婆と楽しく過ごしたイヴ。

 

「彼女を喜ばせてやったじゃないか」 ポールは、良いことをしたとオーギーを称える。
「盗みは、芸術のためなら許されるっていうのか?」とオーギー。
「そうは言わないさ。そもそも、きみが直接持ち主から盗んだわけじゃないし、それより、きみはカメラを役に立ててる...」

「どうだ、クリスマスの物語になるだろ?」とオーギー。
「ああ、助かったよ。作り話が巧いのも才能だな」
「そりゃあ、どういう意味だ?」

 オーギーのこの『煙をつかむような話』は果たして真実か。兎も角、小説のネタを提供され、ポールには良いクリスマス・プレゼントになった。

 

***

 

 このお話、1990年12月25日クリスマスの朝、ニューヨーク・タイムズ恒例『クリスマス特別編集号』に掲載されるや大反響を呼んだ傑作である。その後、この作品は原作者により脚本化され、1995年に映画『SMOKE』として公開された。
 原作並びに脚本、ポール・オースター。

 

 

 

 

 

【翻訳・朗読 : 柴田元幸 - オーギー・レンのクリスマス・ストーリー】

 

 

(S/N 20251221-2 / Studio31, TOKYO)

 

 

 

 

 湘南から東京の大学までの距離を自宅から通うのはめずらしく、通学に時間を取られ、大学の友達とはほとんど遊ぶ機会はなかった。だから、休日に遊ぶのは中学・高校からの友達に限られた。

 

 大学の講義がない日の早朝や夕方、いい風が吹いていれば決まってディンギーを出した。夏休みも同じスケジュールだったが、日中は風が落ちるのと海水浴客が砂浜に陣取るため、ヨットは出艇する場所が制限されてしまう。

 

 陸(オカ)に上がっている夏の日中に地元の仲間が集まる場所があった。そこは防波堤のはずれのテトラポットの陰で風を避けられる一角。そこへ行けばいつも男女取り混ぜ四、五人は顔見知りがいて、雑談としか言いようのない会話で時間を費やせた。

 

 たまにせがまれて後輩の女子をディンギーに乗せることはあったが、地元以外の女子を乗せることは絶対に無く、万が一乗せたりしようものなら、ヨットを出汁に誘ったと誤解され、ヒンシュクを買うのは必至だった。

 そうする中、みんな大学生や社会人になると段々海とは疎遠になり、大人になっても残っているのは近隣通勤者か地元の商店の跡継ぎくらいのものだった。

 子供の頃と比べて海と疎遠になったとは言え、休日に気が向けば、例の防波堤下に顔を出すことはあった。さすがに町を出て家庭を持った女子とはほとんど会うことはなかったが...。

 

 しかし、最近は世情も変わり、結婚をご破算にしてカムバックするのがいる。
 男はめずらしくないが、女の中にもバツがひとつならずふたつ付く剛の者が複数いて、
「アタシも今度結婚すると三回目になるから、先輩がもらってくれるなら今度こそは頑張って添い遂げるけど...」などと売り込んでくるのがいる。
「うん、考えておこう。当てにしないで待っていたまえ」と昔馴染みの気楽さからこんなことを言って寸前でかわすこともあるにはある。

 

 そんなカムバック組女子の会話を聞いていて感心させられることがあった。
「結婚に失敗すると、みんなバツの数で品評するけど、昨今は結婚まで漕ぎ付けない人もいるから、アタシ等再婚組はバツいくつではなく、マルいくつとか言ってもらいたいよネ」。
 まあ、そこまで楽観的に生きられるなら、手のかかるオイラとでも結婚生活が出来るかも知れない、と思ったりもする。

 

 

 

 

 

【Molly Tuttle - Octopus's Garden】

 

 

(S/N 20251221 / Studio31, TOKYO)

 

 

 

 

 人類学的には一世代を三十年と考えるのが定説になっていて、自分の世代と祖父母の世代とは二世代違うと計算する。たった一世代前の父母世代とでも考え方が共有出来ないことが多いのを考えると、一世代三十年で多くのことが変わると思うことの方が妥当で、半世紀前の常識ともなれば、今もそれが通じると考えるのは半ば幻想に近いことだ。

 

 五十年前の文学青少年の読書傾向と比べれば、今はもう図書館でしか読めないものもすこぶる多い。当時、主要な近代文学作品を読み尽くして、読むものがなくなってきた青少年達は、レアな作家の作品にも手を出した。例えば辻潤(つじ・じゅん)。手を尽くせば今でも読めるんだろうか。