マレーの心の中には濃霧の立ち込めるような思いがあった。オーク軍という未知の敵に対する警戒心も当然あったが、それよりもさらに底知れぬ何かがその先にあるのではないかという疑念が拭えなかった。何故そのような事を思うのか?それを自らの心が明かしてくれなかった。経験豊富な騎士ゆえの、あるいは若者の命を思う老人ゆえの後ろ向きな思慮であったのかもしれない。が、それでもなお彼の胸中には「まだ見るべきものが見えていない」という独白が繰り返されていた。

(一体俺には何が見えておらぬというのだ?)

 ライレリア王国を思えば惰眠を貪った王都の者達を呪いたくもなる。騎士として決して口にしてはならない事だが、もうほんの少し、ほんの短い間だけでも、小さな戦のひとつでもあれば王都の人々も強く賢くいられただろう。

 白獅子騎士団の奇襲突撃は彼らの傲慢そのものと言えた。敵の戦力も把握せず、彼らは「勝利の栄光は我が手にあって然るべきだ」と考えた。それこそがライレリアがかつての精強さを失った何よりの証拠だった。彼らもまた、見るべきものが見えていなかったのだった。

「陛下は無事に鴉群れ砦に到着なさるでしょうか?」

 若きソローの言葉に祖父のマレーは驚いた。孫の若く瑞々しい頬を見るとそこには彼の純真な心が映されていた。ソローは本心から王の身を案じていた。あの怯えて逃げ回るしか能のない愚劣な王の身を・・・。

 マレーは若者の心を傷つけぬよう慎重に言葉を選ばなければならなかった。

「近衛の隊長はあのマーティシオ・レル・オースじゃ。あの男ならばやりきるじゃろう。このわしでさえ幾度も命を救われたものじゃ。心配は無用じゃ、ソロー。あの男をお前に紹介してやれなかったのが残念なほど見事な武人よ」

 マレーは若い騎士に笑って見せた。ソローも笑みを返したが頬の緊張は消えていなかった。

(ソローよ。まだあの腰抜けの亡国王を気に掛けるか。なんと優しい子じゃ。優し過ぎる。戦とは非情なものだと、もっと強く教えてやる機会があれば・・・)

 孫のソローは母親似だった。子のハーシュも母親似だった。母親らは優しい女だった。マレーにとって自慢の家族だった。しかし彼女たちの手前、自分がその目で見てきた戦いの惨たらしさを、ありのままに教えてやれなかった事が悔やまれた。それはライレリア騎士として恥じるところのない男に育ってほしいという祖父の心遣いであり、マレー自身の甘さでもあった。

 次の世代には平和で美しいライレリアを見せてやりたい。子の親であれば誰もがそう思うだろうが、キュリエム家は騎士の家柄だった。もしもの事があれば何をするかは子も孫も分かっている。ハーシュには実戦を経験させることが出来た。幾度か蛮族討伐の遠征に加えてやり、副長として十分な実力を備えさせてやることが出来た。

(あれは良い騎士に育ってくれた。剣ならば既に俺よりも強い。あと十年あればソローを立派な騎士に育ててくれるはず。あと十年、あれば)

 その十年が今でははるか遠くに感じられる。戦いの近づく血生臭い気配だけが近くに感じられた。

 オーク軍は不気味に行軍を停止していた。それは獲物が疲れ始めるのを待つ捕食者の沈黙を感じさせた。騎士達も自分と同じように感じているだろうかとマレーは思った。軽率な事を口にしてはならない。オークどもが血に飢えながらも沈黙を選ぶなら、こちらはさらに勇敢な沈黙を見せつけなければならない。マレーは斥候と別動隊に大まかな指示を出しただけで、あえて本隊には待機とだけ伝えた。

 騎士たちは辛抱強く待った。心は既に戦場の怒りに燃えていた。しかし今はまだ動く時ではない事を承知していた。彼らはただの兵士ではなく、蛮族の戦士でもなかった。騎士は忠誠の為に戦う。ライレリアに忠誠を誓った彼らはライレリアの為にこそ死ぬ。本望とは、ただ戦って敵を殺すことではなかった。

「隊長、報告します。最後の避難民が移動を開始しました」

 若い騎士がマレーに馬を寄せて言った。

「うむ。我らもしばらく後、移動を開始するとしよう」

 マレーがそう言っても騎士たちは猛る心を押さえ、馬上で騎士の威厳を保っていた。マレーはこの者達こそ騎士の中の騎士であると心底思った。自分が彼らと同じほどの年だった頃は、彼らのように振る舞ってはいなかった。自由騎士として奔放に、否、素直に言えば勝手気ままに振る舞っていた。

 今この時、マレーは我が子と孫だけでなく、多くの強く清らかな若者たちの命を預かっている。若い頃からは考えられもしなかった境遇だった。

 マレーはまだ十代だった頃に里を離れ、エルダリア大陸を愛馬と共に放浪した。胸躍るような冒険の数々があった。神々の秘宝に触れた事もあった。おそろしい怪物を倒した事もあった。竜を見たとは結局誰にも打ち明けられなかった。恋もいくつかあったかもしれない。優しい女たちだった。彼女たちは今どこでどうしているだろうか?いや、そんな事を思い出しては妻に悪いか。妻よ、美しい人生に俺は感謝する。そして、このライレリアに感謝する。いつの間にか、こんなところに辿り着いてしまった。

 愛馬の嘶く声にマレーは、はっとした。思い出の中から馬上へと帰った。

(何故昔の事など思う?今はそれどころではないだろうに?)

 こんな自分でも今ではもう辺境の勇壮な騎士たちを率いている。長いはずの年月はサイコロ賭博のイカサマのように過ぎ去っていった。後悔などあろうはずもない。オーク軍との決戦でこの長い命をはじまりの光に返すなら、それも悪くはない。

 しかしマレーにはまだやるべき事が残されていた。

「騎士達よ。我らも移動を開始する」

 街道を見下ろす丘を降りて、避難民たちの疲れ果てた背中を見送った。彼らの旅路は長く険しいものになるに違いない。はたしてどれくらいの人数が、最北端の鴉群れ砦に無事辿り着く事が出来るだろうか。我先に王都を捨てて逃げた愚劣な王と共に歩むのはどんな思いだろうか。近衛兵たちは怯え切った王の姿を見て何を感じたのか。そして傲慢の罪を罰せられ敗北したとしか言いようのないライレリア白獅子騎士団の生き残りは、これから先に出会うであろう民とどう言葉を交わせばよいのか。そして何より、すべてのライレリア人はオーク軍という未知の脅威から、どのような神の意図を知る事になるのだろうか。

 まるで何もかもが予め用意されていたかのようだとマレーは感じていた。

(俺達がまだ知らぬ神がいて、用意された筋書きのままに動かされている。そのように考えるのは、まだ早いだろうか)

 仮にそうだとしたら、動かされているのはライレリアだけではないはずだった。エルダリア大陸すべてがまだ見ぬ神の手中にあるはずだった。そうでなければあれほど巨大な軍をオークが招集できるはずがなかった。

(そう言えばオークどもにも信じる神がいるのだと風の噂で聞いたことがあったような・・・。ガラ・バジエードとかいう英雄神だかなんだかを信じていると。しかしあれは確かエルダリア大陸の外からやってきた古代蛮族の侵略者だったはずだが。しかもあれはオークではなく人間だろうに。一体奴らの頭の中はどうなっているのだ?いや、そもそも奴らは信仰の何たるかさえ分からんだろうに。馬鹿な連中だ、まったく。自分たちが一体何をしているのかさえ知る事はあるまい)

 さまざまな思いを巡らせてもマレー自身何も分からずにいた。分からずに戦う事をおそれる心はなかったが、戦いよりも大きな厄災を感じている事は事実だった。

 何かが迫っている。そしてそれは止められない。やはり胸の奥から「まだ見えていない」という独白が聴こえてくるのだった。

 避難民の行進速度はマレーが予想していたほど遅くなかった。彼らはオーク軍のおそろしさをよく覚えていた。恐怖が彼らの震える脚を前へと進ませていた。

 避難民たちの最後尾が凍る北方へと続く険しい街道に入った。彼らの背はもうほとんど見えない。戦うべきではない者たちは去った。

 いよいよ戦場となるべき地には邪魔する者はなく、殺伐とした空気に満ちてきた。騎士達は決戦の場として選んだ狭路まで進み、オーク軍を迎え撃つ陣を敷いた。馬上の気高き戦士たちの中には武者震いを感じている者もいた。あるいは全身鎧の下の肌を熱くし、戦場の名誉を渇望している者もいた。

 数の上ではオーク軍が勝っていた。戦車隊の脅威もあった。地の理を活かし、街道の幅が狭くなったところまで誘い出す必要があった。ここであれば小賢しいゴブリンどもの人海戦術も、オークどもの戦車突撃もある程度は押さえ込める。勝機は見いだせる。それはいつどの戦いでも同じであり、マレー率いる「マージュネー神殿と清らかな灯騎士団」において常に変わらぬ信念だった。

 マレーは居並ぶ騎士達の前に馬を進め、思わせぶりに沈黙した。勇敢な騎士たちは期待を込めてマレーの言葉を待った。彼らは戦いを前にして、尊敬する隊長から何か言葉を期待するのが常だった。それをマレー自身よく知っていた。

「騎士達よ、オーク軍との決戦を迎えるにあたり、わしから諸君に言っておきたいことがある」

 静かに兜を脱ぎ、騎士たちはマレーに注目した。

「みな分かっておると思うが、この度の戦いはこれまで経験してきた戦いとは大きく異なる点がある。相手がエルダリア各地から結集したオーク軍であるという点だ。これは永いライレリアの歴史において、かつてなかったことだ。その為にライレリア白獅子騎士団は不覚を取り、敗走した。彼らの姿をみなが見た事と思う。あの姿こそ我らに必要な最後の備えであった。つまり、敵への敬意だ。戦士としての礼節だ。戦う相手は常に自分と同じ力を有すると考えなければならない。彼らはそれを我らに教える為にあのような惨めな姿を晒したのだ。それが彼らの力で成せる最後の勤めであった。彼らのしてくれた事に感謝し、我らは彼らのような無様な姿を晒す事は許されない。我らには勝利あるのみだ」

 騎士たちの深い息遣いのひとつひとつがマレーの中に流れ込んでくるかのようであった。彼らは十分に理解していた。決戦の場に愛馬を駆るマージュネーの騎士として、ここで死ぬのならば、必ず敵の首をふたつ以上落としてからでなければならない。それが騎士の命というものだと、彼らには分かっていた。

「諸君。敵は強い。そしてまた我らも強い。この崖に挟まれた狭路の戦いにおいて大勢は決する。オークか、人か。そのどちらかがライレリアの主となるのだ。諸君、奮闘せよ!たとえここで何が起こったとしても信じて戦うのだ!信じて戦うのだ!信じるものの為に戦うのだ!ライレリアのために!」

 騎士たちは剣を掲げライレリアのためにと唱和した。その声はすべての神々に聞き届けられたかと思うほど雄々しかった。

 これほど勇壮な騎士達がかつてライレリアにいただろうか?士気も剣の腕も頂きにある。人馬はまさに一心同体。忠誠は言うまでもない。彼らこそライレリア、いやエルダリア最強の騎士たちに違いない。マレーは心底そう思った。誰一人として恐怖に負けていなかった。忠義を忘れていなかった。何を成すべきかを知っていた。

 最弱の王は去り、最強の騎士が残った。そして今、最も恐るべき敵が迫っている。

(何が起こっても信じろ、とは。そんな事を言ったのは初めてだったな)

 見るべきものが眼前に迫っている。それが何であるのか、何故それが来ることを自分が知っているのか、マレー自身にも分からなかった。不安に思う心を無視する事が出来なかった。

「ライレリアのために!」

 マレーは喉も破れんばかりに声を張り上げ、騎士達を鼓舞し続けた。それを彼らが欲している事をよく知っていた。

 腹の底から声を出し続けているうちに、年老いた身にも力強い戦士の火が燃えてきた。若者たちはなおさらだった。激情家のハーシュはすでに目が血走っていた。物静かなソローの掲げる剣先はわずかに震えていた。戦場の主となるに相応しい男たちだった。

(俺達はここで何かを見る事になる。しかし、大半は死ぬ。せめてそれを誰かに伝えられる者が一人でもいれば・・・)

 マレーは自然と孫のソローと彼の愛馬を見た。彼と彼の馬は速かった。辺境で最も速かった。少なくともマレーはそう思っていた。

「ソローよ、わしから離れるでないぞ」

 ソローはいつもマレーの孫であることを気にしていた。英雄の孫として振る舞えているかいつも気に掛けていた。愛する孫ではあったが、彼の気持ちを思えばこそ他の騎士達と何も変わらぬようマレーは今まで接してきた。特別扱いはしなかったのだ。

「隊長!ひとりで戦えます!」

 ソローは即答した。瑞々しい透き通った声に怒りさえ混じっていた。

「そうではない!混戦になるは必至!お前はわしの言葉をみなに届けて走る役目を担うのだ!わしの声が聴こえる距離を離れるな!」

「承知!」

 父のハーシュを真似て返事したらしかった。

 マレーはソローの背がハーシュよりも高くなっていた事を思い出した。ソローの年であればもう少し伸びそうに思えた。

 ソローと同じくらいに若い騎士はあと八十人はいるだろう。しかし、彼らが生き残る保証はどこにもない。ここで彼らの未来は残らず潰えるかもしれない。

(だからこそ誰かが伝えねばならん。ここで起きた事を、まだ戦える者たちに伝えねばならんのだ)

 マレーの覚悟は決まった。しかしソローが納得するのを待っていられる時間はなかった。ソローを走らせる直前に伝えなければならない。もうそれしかないとマレーは覚悟した。

 マレーはソローの愛馬を見た。いつ見ても見事な馬だった。ソローに伝える目的地まで必ず走ってくれるだろうと思った。

 辛い役目を背負わせてしまって、すまない、とマレーは心の中でソローに詫びた。