駅のホームにずっと立っていると、駅員に注意された。

「すいません。出て行ってもらえませんか?」

「何故?」

「何故ってあなたは犬でしょう?入ってもらっちゃ困りますよ」

「お金は払った。私は駒振り町まで行くのだ」

「そんな駅はありませんよ」

「いや、あるはずだ。私の仲間がたくさんそこの界隈にいて、私は彼らに会いに行くところなのだ。彼らは私を必要としているのだから」

「だったらそのお友達のどなたかに連絡して車で迎えに来てもらってください。電車は利用しないでください、犬なんだから」

「誰も車など運転しないんだよ。我々は犬なのだから」

「やっぱり犬じゃないですか」

「犬であるという事を否定したつもりはない。ただ切符を買った以上、私は電車に乗る。それは君たちが決めたルールだと思うが?」

「切符。切符ねえ」

 ぶつぶつ文句を言いながら駅員はどこかへ行ってしまった。私の相手をするのは本意ではないらしい。彼のような人間は多い。困ったものだ。一体何をそんなに好きでもない事をする必要があるのか?人間社会は複雑で、一生涯を掛けて自分専用の迷路を拵えているかのようだ。わざわざそんなものを作らなくても、人生は充分に謎に満ちているというのに。

 彼らは神や天使を信じない。無理もない。彼らは世界を楽しまず、世界は自分を楽しませてくれないと信じているのだから。

 電車が来て、電車に乗る。もうそれだけで私は私の気が狂っているのかと思ってしまう。何故電車に乗る?何故歩いて行かない?身軽な私は同じ距離を歩いても少しも疲れない。今は二本足だが四本足の犬と比べても少しも劣らない。犬のステップを見たいか?それはそれは素晴らしいものだ。はじめて踊った人間は我々の祖先のステップを真似て踊ったのだ。私はそう信じている。

 電車の乗客は私をじろじろ見ているのに見ていないふりをする。見たければ見るがいい。何だったら少しくらい匂いを嗅いだっていい。私はもう人間の匂いに興味はないが、いつになったら人間は匂いに興味を持つのだろう。その顔の真ん中についているものは何だ?鼻ではないか?ずいぶん貧弱に見えるが。使いたまえよ、存分に。分からなかった事が分かるようになり、知らなかった事が知れるようになるだろう。私は人間に対して意地悪なので教えてやらない。いつか人間に「どうして教えてくれなかった?」と問われたら、ずいぶん引っ込んでいるので君たちのそれが鼻だとは思わなかったと答えるつもりだ。

「犬だよ、ママ。犬が電車に乗ってるよ」

 小さな子供が私を指差して言う。ママがやめなさいと言う。

「服着てるよ、人間みたい」

 私は人間であろうと子供が好きだ。世界を本当の意味で遊べるのは子供だけだ。私もなんでもいいから犬でなければ子供になりたい。王と乞食を同時に遊ぶ子供になりたい。私にはきっと才能があるだろう。

「どうして服着てるの?」

 子供が大きな声で言う。ママがまたやめなさいと言う。

「形見なのだよ、私にとても良くしてくれた人の」

 私は教授と呼ばれる人にお世話になった。犬と人とは対等である、と教えてくれたのはあの人だった。私は彼のコート、スラックス、ソフト帽と彼の教えてくれた事をいつも大切に身につけている。

 私が電車を降りる時、子供は私に手を振ってくれた。私も手を振った。ママは私を見ないようにしていた。

 

 駒振り町という駅はない。あの駅員が言った事は正しい。しかし私の降りた駅からでしか駒振り町には行けない。犬には犬の、秘密の駅があるのだ。

 電車が来ていない事を確認し、ホームを降り、フェンスを越え、切符を捨て、私は建築資材が朽ちるままに捨て置かれている地区に入っていった。土地開発が行われているという名目でここは一時的に人間から忘れられている。あるいは忘れるためにこのような場所にされているのか。人間の思惑は分かっている。我々をこうした場所に誘導して、自分たちの目に触れないようにしているのだ。上手いやり方だ。しかし根本的な解決にはならない。いつか彼らは我々を完全に受け入れなければならない。その時が来るまでは私のような犬の世話になるだろう。彼らの頭は何故か遅い。考え込んで、考え込んで、考え尽くして疲れ果ててしてしまう。望むならそれもいいだろう。私はやりたいとは思わないが。私は彼らの選択を邪魔したくない。

 ドッグ・ブルーズという無名の歌手が歌った歌を口ずさむのが、我々の秘密の合言葉だった。恋に破れた男がウィスキーを飲みながら街をさまよい、最後には車に轢かれて死んでしまう、という歌詞の曲なのでまったく売れはしなかったが、それがゆえに我々は妙に気に入り、合言葉にしたのだ。

「ジョン・ムライか?」

「ああ、そうだよ」

「よく来てくれた。さあ、こっちだ」

「どうもありがとう」

 同胞は毛の長い犬だった。建築資材にかけられたブルーシートを彼が開けると、そこには鼠たちの赤い目が光る魔女の小道とでも呼ぶべき趣の隠し通路があり、私はソフト帽を押さえて身を屈め、気持ちを落ち着けてそこを通った。いよいよ危険な同胞たちとのご対面というわけだった。

 地下室なのか廃墟なのか分からない。薄暗く広いコンクリート打ちっ放しの一室だった。私を呼んだ同胞たちは円卓の騎士よろしくサークル状に並べられた椅子に座って私を待っていた。裸電球がひとつ、彼らに淡い灯りを落として揺れていた。

「ジョン・ムライ。遠い所をよく来てくれた。座ってくれ」

 片耳の先端を少し欠いた毛の短い黒い犬が私に挨拶した。なかなか私が呼び出しに応じなかった事を揶揄していた。

「貴方がボス?」

 彼はハアハアと笑った。紛れもない犬の笑い方だった。

「ここにボスなんて犬はいないのだよ、ジョン・ムライ。ジョンと呼んでもいいかね?もしも気に触らなければ」

 私はほとんど口の外に出ない短い声で吠えた。

「よろしい。私の名前は、アッチイケ、だ。ファミリーネームはない。他の同胞と同じくアッチと呼んでくれて構わない。さあ、これで全員が揃った。良き友人たちよ。今日まで私達を悲しませてきた問題を終わらせようじゃないか」

 人間のように頷く者もいれば、威厳を保ってただ黙っているだけの者もいた。

 一匹だけ私が知っている犬がいた。昔、私を腰抜けの去勢野郎と罵倒した犬だ。茶、黒、白の犬で最近になってマダラと呼ばれるようになっていた。数年前までこの犬に名前などなかった。一体誰がこんな洒落た名前をつけたのか。マダラは誰にも名付け親のことを話そうとしない。人間につけられたと噂する者もいたが、そのような屈辱的なことをあのマダラが受け入れるはずはない。結局真相は闇の中だった。

 そして私は彼がこのような会合に呼ばれるほど出世したとは知らなかった。喧嘩がめっぽう強い事はもちろん私も知っていたが最近ではそういう犬が出世するのは非常に珍しい。人間においては知らないが、我々において犬と言えば二本足が既に主流派であった。犬が犬に嚙みつく時代は終わったと言える。少なくとも私を含めこの会合のメンバーはそう考えているはずだ。私のマダラに対する違和感は最後まで拭えなかった。

 マダラが私を見た。まるで私が何を考えているか見透かしているような目だった。私もマダラを見返した。相変わらず野犬そのものだった。今でも猫やカラスを食っているのではないかと疑りたくなってしまうほどだった。滅びゆく四本足の象徴ともいうべき彼の風貌は、ある種、異様な匂いを漂わせていた。

 マダラが突然私に言った。

「ジョン。お前は今日何を話し合うか聞いてきたか?」

「いいや、聞いていない。誰も教えてくれなかった」

 私は彼に無視されるだろうとばかり思っていたので非常に驚いた。彼は極めて単調に話し合うべき問題を要約して聞かせてくれた。

「同胞がまた一匹死んだ。先月も含めてこれで五匹目だ。おかしなことだ。我々犬は冬の終わりに死ぬ。まだ秋に入ったばかりだ。死ぬ奴が出るのは早過ぎる。つまりこれは、誰かが我々を殺しているという事だ」

「マダラ君、待ちたまえ。まだそうと決まったわけではないのだよ」

 アッチは煙草に火をつけた。我々犬は煙草を吸えないことはないのだが、かなり吸い辛い。口が短い犬ならば吸える。アッチは口が短かった。しかしそれを踏まえてもかなり器用に煙草を吸った。傲慢な態度だった。老齢の犬は人間の真似事を自慢する傾向があった。くだらなかった。奴らは犬の誇りを忘れていた。

「ミスターアッチ。おかしなことが起きているのは間違いのないことです」

「うむ、その通り。それは間違いない。しかし別の可能性も考えられんかね?」

「別の、ですか?」

 マダラはある程度アッチに敬意を払っているように見えた。

「私は、つまり、こう主張したいのだよ。我々の死期に変化が訪れたのだと」

 サークルはどよめいた。アッチの仮説はあまりに大胆なものだった。

「しかし、ボス。俺達にそんなことが起こるなんて聞いた事もありませんぜ?犬は冬の終わりに死ぬ。人間のガキでも知ってることじゃありませんか?」

 メンバーの中でもひと際小さな犬が発言した。私はこの駒振り町の会合に参加したのははじめてだったので彼を知らなかったが、発言力の強い犬であることは分かった。おそらく同じサイズの犬たちのボスなのだろう。最近ではああいう連中が一番勢いがあるともっぱらの噂だった。

 アッチが小さい犬にグエグエと微笑みかけた。小さい犬は頭の位置を低くした。

「さて、ここで我々の短い歴史を振り返ってみよう。先ずはじめに起きた革命的な事件は何かね?今我々がここでしている事だ。そうだ、言葉を使うようになった。我々は言葉を得た。複雑なコミュニケーションが可能になり、我々は自分たちが犬であることを知った。人間の足元にうずくまる生き物ではなく、犬という独立した存在だと知ったのだ。犬は犬として生きる。その意味は既に諸君も知っての通りだ」

 サークルは静まり返っていた。誰も舌を舐める事さえしなかった。

「次に何が起きた?二本足で立つようになった。我々は見下ろされる側から見下ろす側へと立場を変えたのだ。私はこちらに重きを置いている。何故か分かるかね?諸君、尊厳だ。我々は尊厳を手にしたのだ。今ではもう誰も人間どもに媚びへつらう必要はない。我々は公然と彼らに対して我々に敬意を払うように要求した。噛みついたわけではない。言葉によって要求したのだ。これこそが我々の今を築き上げている。若い者は知らないだろう。人間が我々に抵抗したこともあったのだよ。無駄な事だった。あの時の奴らの怯えようときたら!」

 アッチが笑うと他のメンバーも笑った。

 あのマダラでさえも気まずそうに笑っていた。

 私は段々と読めてきた。これはアッチの意思決定を通達する会合だったのだ。

 私はまんまと罠に嵌められたというわけだ。つまり私がアッチの決定を私の縄張り、我々が愛してやまない北番場流通団地に伝達するというわけだったのだ。アッチはその毛並みの通り、汚いやり方をする汚い犬だった。