一行は駆け出した。今ではもう命が長らえるかもしれないという希望を持っていた。希望に勇気づけられ、勇気が脚に力を与えた。ぜいぜいと息を切らしているのは誰だろうと思いはしたが、それが自分の発する息だとは誰も気がついていなかった。もう声を出さなければ息を吸う事も吐く事も出来なくなった時、ようやく一行は速度を緩めた。戦場を脱したことに気づいたのは、それからまだしばらく後だった。

「パーゼル、パーゼル。少し、休ませてください。もう脚が」

「ああ、情けねえ事にこの俺もだ」

 ロモが一番に座り込んだ。ただの気のせいに違いないが、少し痩せたように見えた。その方が精悍で、良いロバに見えた。市場と僧院を往復する事しか知らない野菜運びのロバだったとは到底思えないほどだった。しかし当の本人は、もうごめんだ、と言わんばかりに鼻を楽器のように鳴らし、息苦しさから解放されようとしていた。

「もう少し移動しよう。こっちに水の気配がする」

 水の一言にマニシもロモも重くなった体を引きずって、パーゼルについて行った。はたして水はあった。草を分けてパーゼルが指さした。そこには清らかな冷たい水が流れていた。パーゼルとマニシは手ですくって飲んだ。ロモは地面に溜まった水に鼻面を突っ込んで、ふしゅふしゅと鼻息を立てながら飲んだ。生き返ったような気分だった。

「で、これからどうする?」

 パーゼルはマニシが戦争を止められなかったことを辛く感じているだろうと思っていた。

「琥珀の杖・・・」

「え?」

「マジャ・バニ師も琥珀の杖を持っていました。という事は、わたしとマジャ・バニ師の間には何らかの絆があるという事を表していると思うのです」

「あ?ああ、もしかしたら、そうかもな」

 熟考しながら話すマニシの横顔には賢者の貫禄さえ見て取れた。それはこれまでの短い旅の中では感じられなかった一面だった。パーゼルはマニシが戦場の惨劇を経験して、どんな結論に達したのか興味深く思った。

 マニシは一語一語はっきりと、自分の中で何かを探し求めるように語り始めた。

「マジャ・バニ師はボボ・オーニ将軍を率いて人間の都を襲うと決めたのです。おそらくあの戦車隊は真っ直ぐ王都に向かったでしょう。ライレリア騎士団と王都の壁があれほどの攻撃力を防ぎきれるとは、わたしにはとても思えません。まちがいなく王都は陥落し、各都市や村落に悲報が届き、やがてはライレリア王国全土に戦乱が拡大するでしょう。ですが、マジャ・バニ師はそのような局所的な戦いで満足する気はないはずです。エルダリアの全てを蹂躙し尽すまで止まらないのです」

「ほほう、デカく出たじゃねえか。エルダリアを蹂躙し尽す、か。そうなると人間どころか古代種、精霊種、巨人族を丸ごと相手する事になるなぁ」

 パーゼルは足を投げ出して草を二三本むしった。

「マジャ・バニ師とボボ・オーニ将軍なら恐れはしないでしょう」

 マニシは片膝を立てて顎を乗せた。ロモは腹這いになってもう寝息を立てていた。

「そりゃそうかもしれねえけどよ、あいつらだってタダじゃ済まねえだろ?オーク族丸ごとエルダリアから消されるぜ?そんなんじゃあ、いわゆるその・・・、なんだ?戦争目的の達成ってやつが、消失?未完?まあ、なんていうか、やる意味も何も無くなっちまうだろ?俺はそこまでマジャ・バニは馬鹿じゃねえと思うぜ」

「それこそがマジャ・バニ師の意思です。自ら救われる事のない戦いに身を投じて、エルダリアを道連れにするつもりです」

「おいおい、滅多なこと言うもんじゃあねえよ。それじゃあエルダリアの歴史が終わっちまうじゃねえか。そんな事になったら俺達はどうすんだ?神々はもういねえんだろう?誰がエルダリアを救うってんだぁ?あ?」

 マニシは顔を少しだけパーゼルの方に向けた。同じ惨劇を目撃した星々と月がマニシの白い額を照らしていた。

「今のところ、貴方と私とロモしかいません」

 パーゼルはおどけて褐色の頬をへこませた。

「いいぞ!俺達はエルダリアの英雄だ!」

 パーゼルが両手を打ち鳴らすとロモが驚いて顔を上げた。パーゼルは寝てろ、と言いロモの首を撫でてやった。ロモはすぐに安らかな眠りに落ちていった。

 夜目の利くパーゼルはマニシの顔がよく見えた。何か重大な決意が定まったような悲愴な面持ちだった。パーゼルはその顔に何故だか耐え難いものを感じた。

「そんじゃまあ、早速明日にでも大軍を招集して、オーク兵どもをぶん殴りに行こうぜ?ボボ・オーニもマジャ・バニもまとめて跪かせて断頭台に上がらせてやるんだよ!そうすりゃライレリア王からたんまり褒美が貰えるってわけだな?いや、待てよ。ってことは俺も盗賊家業は引退だな。余生は再建された王都防衛軍の筆頭将軍ってところか。なかなか良い物語じゃねえか、気に入ったぜ」

 もうお手上げだと思いパーゼルは寝転がった。草が柔らかく、寝心地は悪くなかった。せめて今夜だけは良い夢が見られればいいと思い、目を閉じた。

「パーゼル」

 マニシはまだ眠る気がないようだった。

「なんだよ?」

 不機嫌そうにパーゼルは返事した。仕方なく目を開けた。

「本当にすみません、こんな事に巻き込んでしまって」

「まあ、いいってことよ。気にすんな」

「楽観し過ぎていました。もっと話し合いが上手くいくと根拠も無しに信じていました。その、つまり、期待し過ぎていたのだと思います」

「何に期待し過ぎてた?」

「初めて明白に示された私の運命にです」

「そうか、初めて明白に示された、か。うぶなお前じゃ舞い上がっちまうのも無理はねえな。けどよ、マニシ。ひとつだけはっきりさせておくぜ?いいか?」

「はい」

「何をどうしようが結局神々なんざ関係ねえと俺は思うんだよ。関係あったとしても関係ねえ。分かるか?やるのは俺達だ。やるんだって腹をくくった瞬間、俺達のこの拳は俺達だけのモンだ。それ以外にはあり得ねえ。マニシ、誤解すんなよ?お前の神を否定してるわけじゃあねえんだよ。ちょいと誰かに何かを囁いたって、そっと誰かの背中を押してやったって、気づきもしねえ間に幸運をもたらしてやったって構わねえんだ。そうするのが神々の仕事だろう?けどな、結局は俺達なんだよ。俺達がやるか、やらねえかを決めるんだよ。そうじゃねえか?このエルダリアに二本の脚で立ってるのは誰だ?俺達だろう?神々じゃあねえ。だったら俺達なんだよ。このエルダリアをどうするのか決めるのは運命でも神々でも一つの創造主でもねえんだよ。俺達だ。ここは俺達のエルダリアなんだよ。だから、厨房の僧マニシ。湿っぽい顔すんのはもうやめろ。ここで終わるわけじゃねえ。俺もお前もここでこのまま、ハイ、さようならってわけじゃねえんだ。まあ、いろいろ言っちまったけどよ、とにかく、だから、そういうこった。もう情けねえ事は言うな。考えもするな。俺達が決める、俺達がやる。それだけ分かってりゃあいいんだよ。なあ、そうだろ?厨房の僧マニシ。ああ、そうだ。ところで、この厨房の僧ってのは何とかならねえもんなのか?他の二つ名はねえのか?」

 マニシは笑って言った。

「それは考えた事もありませんでした。自分では気に入っていたので。何かおかしいですか?」

「おかしかねえけどよ、あんまり英雄っぽくは聞こえねえよな」

「英雄、ですか?私は英雄にはなれませんから。パーゼルだけどうぞ」

「俺はまだまだこれからよ。伝説をたんまり拵えて、100年後の子供たちを楽しませてやらねえとな」

「100年後ですか。人の世が残っていればいいのですが」

「おいおい、さっき言ったばっかりだろ?そういうのはもう止めだ」

「そうでしたね」

 涼しい風が吹いて、ふたりを慰めた。戦場の匂いなど少しも感じられなかった。風の中には生命の輝きが宿っていた。万物が確かに響き合っていた。

「まあ、今はゆっくり寝て、それから出直そうぜ」

 パーゼルは再び目を閉じた。星の光が瞼に浮かんだ。急に体が沈むような感覚がして、深い眠りに入りかけた。

「パーゼル」

「う?どうした?」

 マニシはまだ横になってもいなかった。

「マジャ・バニ師はボボ・オーニ将軍を伴って王都を襲っています」

「ん?あ?ああ、そうだな」

「ですので私はその逆の事をしようと思います」

「逆ぅ?」

 パーゼルはマニシが何を言っているのかまったく分からなかった。

「オーク・クィーンを知っていますか?」

「そりゃ知ってるけどよ・・・。お前、まさか」

「はい。私はオーク・クィーンを訪ねて、この戦争を止めてくれるように説得したいのです」

「冗談だろ?」

「すみません、パーゼル。本当にすみません。あなたも一緒に来てください」

「なあ、冗談だよな?」

 返事がなかった。返事がないとはつまりそういう事だった。

 パーゼルは悪夢だと思った。あるいはマニシが音楽の神マシウスに騙されているのだと思った。しかし結論としてそのどちらでもなく、マニシはまた本気で言っているのだとパーゼルは知った。たとえ千回でも「冗談だよな?」と尋ねて一回だけでいいから「冗談です」とマニシの口から聞ければどれだけ心安らかになるだろうと思わずにはいられなかった。

「オーク・クィーン。どんな人でしょうか?」

 パーゼルは寝たふりをした。それしかやれる事はなかった。早く盗賊家業に戻りたいとそればかり思って眠りについた。