地が震え、轟音が響き渡り、ライレリア騎士団がオーク軍の野営地に奇襲を仕掛けた。遮る物のない平野に敷かれたオーク軍の野営地は一瞬にして大混乱に陥り、阿鼻叫喚の様相を呈した。

 戦士たちは絶叫した。血飛沫が上がった。切り飛ばされた腕や脚が宙を舞い、引き裂かれた臓腑がまき散らされた。奇襲のほとんどの犠牲となったゴブリンどもの悲鳴は「何故だ」と泣いていた。

 オーク兵たちの怒号が響く。馬蹄の響きよりもさらに重く深く、夜の闇を裂く。

 命令を待つまでもなく反撃が始まった。苦痛を知らないオークどもは馬に体当たりを食らわせ、騎士を馬の背から引きずり降ろした。兜ごと頭を踏みつけられた騎士たちの脳漿が飛び散った。

 野営地を駆け抜けた騎士たちは馬首を返し、再び突撃を試みる。騎士たちは勇猛だった。死んでいった戦友たちの屍を越えて復讐の鬼となり、オーク兵に狙いを定め襲い掛かった。血に染まった剣が獣どもの肉を裂き、えぐった。

 

 殺し、殺され、立ち上がり、両軍の憎悪の炎が渦となって巻き上がった。

 戦いの地獄。そこには正義も大義名分もなく、ただ殺戮だけがあった。死というものが本当に生を安らかにするのかどうか、今は誰にも分からなかった。

「おお、神々よ。何故私達をお見捨てになったのですか?」

 顔を上げたマニシは眼前の光景から目を背ける事が出来なかった。信じられない、とは言えなかった。初めて目にする血の惨劇はマニシのこころに焼き印となって押し付けられた。涙が溢れて止まらなかった。

「マニシ!逃げるぞ、マニシ!何やってんだ、ほら、立てって!」

 マニシのロープを切るのにかなり時間がかかってしまった。マジャ・バニもボボ・オーニも乱戦の中に姿を消していた。最悪の状況の中では最悪の選択肢しか残っていない。鋼鉄と屑鉄とが火花を散らし、人と獣の血飛沫が宙で混じり合うそのど真ん中を駆け抜け、脱出を図るしかなかった。

「立てよ!おい、マニシ!厨房の僧マニシ!」

 いくらパーゼルが呼びかけ助け起こそうとしてもマニシは背を丸めたまま立とうとしなかった。大きく目は見開かれ、何事かを繰り返し呟き、体は石のように重くなっていた。パーゼルは決して怪力ではなかった。マニシを立たせることはおろか、このままでは担いで行くこともできなかった。

 ロモの鳴き声が変わった。短い嘶きを繰り返した。非難しているかのようだった。

「マニシが動こうとしねえんだよ!」

 パーゼルは言い返したがロモは変わらず短く嘶き続けた。

「そうか!その手があったか!」

 パーゼルは一旦マニシから離れ、ロモの縄を解いた。すぐにロモはマニシのそばに立った。パーゼルはロモとマニシを縄で繋いだ。

 

「ロモ!引っ張れ!」

 ロモが懸命に蹄で地面を蹴るとマニシの体はずるずると引き摺られていった。が、それでもマニシは立とうとしない。命の無い人形のようだった。

 その姿に殺意をそそられた一匹のゴブリンが歓喜の声さえあげて、無防備なマニシを襲おうと駆け出した。腰より低く構えられた短い槍が、マニシのだらりと垂れた首を狙っている。しかしパーゼルの敏捷性はゴブリンに勝った。蝙蝠のように襲い掛かり背中から抱き着いた。

「ほら、返してやるよ」

 みぞおちに切れ味鈍い短剣を突き刺した。欲をかいたゴブリンは一瞬体を硬直させ、絶命した。パーゼルは借り物の短剣をそのままにしておいた。倒れたゴブリンの死に顔は、自分の身に何が起きたのか分からないと訴えているかのようだった。

 二匹目、三匹目のゴブリンが控えていたが、パーゼルが殺したゴブリンの短い槍を構えて見せると怯えて走り去った。臆病な二匹はなおも自分達でも殺せそうな相手がどこかにいないか探しているようだった。パーゼルの位置からは見えなかったが手ごろな相手を見つけたらしく、二匹は一行のことなどすぐに忘れて闇の中へ姿を消した。

 戦いの中にいる時に感じる独特の息苦しさをパーゼルは感じていた。額が熱かった。耳鳴りがした。視界が勝手に狭くなるので必死に目を見開いておかなければならなかった。

 目に映るもの、耳に聴こえるもの全てが戦いだった。1000年も前から繰り返されているように騎士たちとオークたちは戦っていた。人が獣を殺し、獣が人を殺している。殺戮という熱病に侵された者同士が、尽きる事のない宴に酔い痴れている。死と残酷が彼らにとって何よりの美酒だった。温かい血の祝杯が幾度も掲げられ、断末魔の絶叫を繰り返し歌った。世界が終わるまで続いてくれと、彼らは殺し合いの快楽に耽っていた。

 百戦錬磨の大盗賊でさえも、その光景に戦慄を覚えた。

(正直な話、もしも五体満足で帰れたら俺もマシウスに感謝を捧げてやるよ)

 パーゼルは珍しく舌打ちをすることなくマニシの体を引っ張り続けた。それ以外に何も出来る事がなかった。

 ロモが急に首を激しく振り始めた。懸命にマニシを引っ張り続けているが、妙に勇ましく嘶いて、左をパーゼルに指し示していた。

「なんだよ、お前まで。そっちに何かあんのか?」

 獣皮のテントの幕が少し開いていた。そこには取り上げられたパーゼルの装備があった。パーゼルは暗闇の中で光を見た気がした。ほとんど本能的に駆け出し体に馴染んだ装備を手に取り、身に帯びた。2本のダガー、鞭、弓矢。これこそ大盗賊パーゼルだった。不可能など無いと信じられる依り代だった。

 戻るとマニシが立ちすくみ、騎士とオークの戦いをぼんやりと眺めていた。まるで白昼夢の中にいる人のようだった。

 パーゼルは無理やりマニシをロモに乗せた。

「マニシ!ここで死んだらマシウスも神々の不在もねえぞ!掴まってろ!走るぞ!」

 ロモが駆け出した。自分が何をすべきかロモにはよく分かっているようだった。パーゼルも俊足を見せた。ロモよりもパーゼルの方が速かったが、マニシを運べるだけでも十分役立っていた。

「パーゼル」

 マニシがロモに抱き着きながら力なく呼びかけた。

「パーゼル。もう少しマジャ・バニ師と話せればよかったと思います」

「今更何言ってんだ?まだ命があるだけでもありがてえってもんだぞ?」

「この戦争は始まってはならない戦争だったのではないかと感じます」

「始まっていい戦争なんかねえだろ?とにかくお前はロモにしっかりしがみついてろ!俺が脱出させてやる!」

 ライレリア騎士団とオーク軍、どちらが優勢であるのか誰にも分からなかった。両軍の屍と武器が積み重なって山となり、戦場の半分は墓場となっていた。

 一行は懸命に駈けた。悪い夢の中を必死に逃げ回る幼子のように駈けた。闇の中にどんな災いが潜んでいるかなど、考えている余裕はなかった。

 ロモが首のない馬の亡骸に脚をとられて転倒した。マニシが転がり落ちる。パーゼルは急いでマニシを助け起こし、すぐにロモの背に乗せようとした。

 が、目の前に鎧を脱ぎ捨てたオーク兵が立ちふさがり一行の行く手を阻んだ。ボボ・オーニ将軍ほどではないにせよ、その巨体と禍々しい斧は大きな影となり、一行に死の暗示を思わせた。

 覚悟を決めたパーゼルは2本のダガーを抜いた。

 オーク兵がパーゼルを見下ろす。その表情からはパーゼルをどう見ているのか窺い知ることは出来ない。旅人が山や川を見るのと何も変わらない表情だった。

 パーゼルはオーク兵を睨み返すような事はしなかった。オークの目は人のそれとは構造が違うため見ても意味がなかった。敵の凶暴な手足にだけ集中した。素早さだけが敵に勝っている以上、どんな小さな動きも見逃すわけにはいかなかった。

 そうすることを予め決めていたかのように両者は動かなかった。互いに何かの変化を待っていた。たとえ我慢比べになったとしても迂闊に動いてしまうのは愚かな事だった。

 パーゼルは待ち続けた。良い風を待て、とはエルダリア全土でよく使われる賢者の言葉だった。

 その時、銀色の何かが突然視界を遮った。パーゼルが反応できないほどの速さだった。それこそパーゼルの待っていた良い風だった。

 馬を全速力で走らせ突撃してきた騎士のランスがオーク兵の脇腹を貫いた。ランスは深々とオーク兵の腹に突き刺さった。人であれば即死してもおかしくはなかった。

 が、オーク兵は怯まなかった。それどころか騎士の胸当てを鷲掴みにし、全身鎧を装備した騎士を片手で持ち上げた。掴まえられた騎士は剣を抜いてなおもオーク兵に攻撃を加えようとした。しかし軍旗のように高々と持ち上げられ、無慈悲に地面に叩きつけられてしまった。骨が砕ける音がした。地面に横たわる騎士の首は背中へつくほど曲がっていた。騎士は即死だった。オーク兵は騎士の亡骸に向かって嘔吐するような声を出し、勇敢な騎士の死を嘲笑った。

 空を切り裂く音が鳴った。パーゼルの鞭がオーク兵の腹に突き刺さったランスに巻き付いた。オーク兵は手品に驚いた子供のような顔をしてランスに巻き付いた鞭を呆然と見つめた。

「お前の戦友のために花でも出してやろうか?」

 パーゼルは担いだ重荷を投げ捨てるようにして鞭を引いた。ランスは勢いよくオーク兵の腹から引き抜かれた。穿たれた腹の穴から腸と鮮血が飛び散った。汚らわしくも儚い命の花が咲いた。

 オーク兵は「お」とも「あ」とも聞き取れない間の抜けた声を出した。パーゼルは勝利を確信した。

 しかしそれは無知ゆえの判断だった。パーゼルはオークを知らなかった。

 苦痛を知らない怪物は飛び出た己の臓腑を無造作に手で掴み、子供がおもちゃをポケットにしまいこむようにして自分の腹に突っ込んだ。腸をすべて収めると、己の血で濡れた指を一本一本舐めた。オークは猫のように満足気な顔をした。

「ちっとは痛そうにしろよ、デカブツが!」

 騎士のランスが重い事はパーゼルも知っていたが、それでも好機を逃すわけにはいかなかった。引き抜かれたランスをパーゼルは拾い上げ、オーク兵目掛けて投げつけた。ランスはオーク兵の口の中に突き刺さり、頭部を貫通した。

 オーク兵の小さな目はいっぱいに見開かれパーゼルを見ていた。しかしそこまでの重傷を負っていながらもオーク兵は絶命せず、前進をはじめた。

 見た事もない戦い方をする小さな人間を是非とも食ってみたい、そうでなければ礼を失する、とでも言いたげな親しみのこもった歩み寄りに見えた。

「まだ死なねえのかよ・・・」

 ランスは刺さったままだった。牙がランスを噛んでいた。唇から涎と血の混じったものが流れ出ている。腹の穴からは収めた腸がこぼれ落ちている。そんな些末な事には構うなと言わんばかりのつぶらな目で、不死身の怪物はパーゼルを見つめていた。

 牛でも両断できそうな斧をオーク兵は頭上高く掲げた。敬意を払うためではないようだった。近づかれれば近づかれるほど毒婦のような妖気を感じずにいられなかった。

 盗賊は戦士ではない。戦いにおいても殺しにおいても専門家ではない。パーゼルはオーク兵の殺し方など知らなかった。

 素早く弓矢を構えた。殺せなくとも前進を止めなければならなかった。両膝を射抜けばあるいは・・・、とパーゼルは思った。賭けてみるしかなかった。

 パーゼルは2本の矢を同時に放った。追っ手の追跡を幾度も逃れた自慢の技だった。2本の矢はオーク兵の両膝を貫いた。が、しかし、前進を止める事は出来なかった。オークの鈍足がもう少し鈍足になっただけだった。

「ロモ!走れ!お前らだけで行け!」

 ロモはパーゼルの要求に応じなかった。四つの脚を勇敢に突っ張って、その場に留まり続けた。パーゼルがもう一度怒鳴りつけようとしたその時、マニシが言った。

「パーゼル。どのみちあなたが死ねばわたしたちに助かる道はありません。あなたと共にいた方がいいのです。ですから、パーゼル。あなたの物語に、わたしたちもいさせてください。それに、大盗賊パーゼルの詩に名を残せるなら大変な名誉ですしね」

 マニシは微笑していた。倦み疲れた人の微笑だった。

「勝手にしやがれ!そこで見てろ!」

 額に冷たい汗をにじませながら、パーゼルはもう一度矢を放った。ランスに当たった。さらにもう一度放った。肩に命中した。矢の無駄としか言いようがなかった。

 パーゼルはオーク兵に向けて罵詈雑言を吐いた。ライレリアでは意味すら通じない彼の故郷で用いられる悪口を、思い出せる限り吐いた。はじめて故郷を懐かしく思った。こんな地獄のような場所ではなく、故郷の風の中で死ねたらどんなに良い事かと思った。それはどうやら叶いそうもないと思うと、数年振りに悲しい思いを感じた。(俺の風もここで尽きたか)

 それでもパーゼルは弓に矢をつがえた。矢が尽きるまで大盗賊パーゼルは戦ったと吟遊詩人に歌わせたかった。

 マニシが叫んだ。

「パーゼル!伏せてください!」

「なんだよ?」

 厨房の僧マニシはひとが思うよりもずっと腕力が強かったのかもしれない。パーゼルに向かって叫ぶと同時に、脚を突っ張らせたロモを地面に押し倒してしまった。ロモはマニシに覆い被されて腹を押され、犬の唸り声のような声を発した。

 それを見てパーゼルは言われた通りにした。しかしいつでも飛び上がれるように片膝を突いただけだった。地面に伏せてはいなかった。

「パーゼル!伏せて!」

 マニシからそんな絶叫を聞くとは思いもよらなかった。

「パーゼル!」

 マニシは激しい手振りで伏せろと言っていた。

「だから、なんだって言っ、」

 月さえ割れるような絶叫が戦場に轟き、血に酔った戦士たちを震え上がらせた。

 轟音とともにボボ・オーニ将軍率いる巨頭牛の戦車隊が戦士たちに襲い掛かった。

 考える暇もなくパーゼルは地面に伏せた。突風が頭の後ろをかすめ、ボボ・オーニ将軍の駆る戦車がすぐ真横を駆け抜けた。

 もしも片膝を突いたままだったなら、ボボ・オーニ将軍の振り回す巨大な屑鉄の剣で、体を両断されていただろう。

 だが体を両断されたのは腹と口と膝頭に穴を穿たれ使い物にならなくなったオーク兵だった。それが偶然の出来事であるのか、それとも将軍としてのボボ・オーニの判断であったのか、パーゼルには知る由もない。しかしオークを殺すには胴を両断すればいいとだけは分かった。そしてもうひとつ、どうやら危機を脱したらしいとも分かった。戦車隊は一陣の風のように過ぎ去っていった。

「無事ですか?パーゼル」

「ああ、お前たちは?」

「どうやらあなたの詩に歌われるのはまだ先のようです」

「ああ、詩を書かせる吟遊詩人もまだ見つかってねえしな」

「戦車隊の先頭はボボ・オーニ将軍でしたね?」

「あんな奴は見間違いようがねえ。ありゃぁ黒いボボ・オーニだった」

「オーク兵を殺してしまったようですが?」

「見ろよ、あっちでもっと殺してるぜ?狂ってやがる」

 猛牛に轢かせ、巨大な鉄塊で打ち殺し、ボボ・オーニ将軍の戦車隊は立ち塞がるものすべてをなぎ倒していった。皆殺しとはあの将軍のためにある言葉であった。

 味方ごと敵を殺すといういかにもオークらしい戦術によって命を救われた一行は複雑な心境だった。とても素直に喜ぶ気にはなれなかった。