夜になっても一行は杭に繋がれたままだった。ロモも逆さ吊りにされたままだったが、食われる心配がないようだと理解したらしく、普段の平穏を取り戻していた。首を左右に振って近くを通るゴブリンの気を引こうとしたり、周囲の匂いを嗅いだりしていた。マニシはオークシャーマンとの会話の後ずっと塞ぎ込んでいた。何か腑に落ちないものを感じているらしく、目を閉じて首を小さく横に振りながら「違う、違う」と呟いたり、かっと目を見開いて前方を見つめ「そうかもしれない」などと呟いていた。もしも王都の知人たちがこのマニシの姿を見たならばマニシは狂人になったと思ったに違いなかった。
一方でパーゼルは極めて現実的な振る舞いをしていた。じっとおとなしくして、オーク軍の野営地を可能な限り観察していた。
見れば見るほど危機的な状況だった。それは神々の不在を抜きにして考えても同じ事だった。オークの軍勢がこれほど大規模に、しかも統率のとれた軍になることなど常識では考えられないことだった。
野営地には小隊がぞくぞくと到着し、オーク軍は増強されていった。これは各地方に散らばるオーク族がそれぞれ合意に達し、何者かの命により軍を形成していると見てほぼ間違いなかった。ゴブリンならばともかく、オークが弱者と見る者の命に服すことなど絶対にない。オークを束ねる者がいる。まだこの野営地には秘密が隠されている。パーゼルは焦燥に駆られた。オーク軍の秘密を見極められずにいた。
(あのジジイのオーク、そんなにスゲエ奴には見えなかったんだがな。それともまだ何かあんのか?)
予測は何の意味もなさなかった。すべてが未知の出来事であり過ぎた。パーゼルは忍耐を選ぶしかなかった。
「パーゼル、パーゼル」
マニシが急に夢から目覚めた人のように声を掛けてきた。
「どうしたよ?お前を導く神マシウスがまた何か言ってきたのか?」
「いいえ、違うのです。それより、あの、あれは何という名前でしたっけ?オークの長で、黒い何とかという名前の・・・」
「黒いボボ・オーニか?」
「そうです、それです!このキャンプにいますか?」
「いますかって、そんなの俺に分かるわけねえだろう?」
「なんとかできませんか?こっそり抜け出して、探し出せませんか?」
「お前な、簡単に言うなよ」
「ですがあなたしかいません」
マニシが本気で言っている事はパーゼルにも分かった。しかしあまりに無謀すぎた。パーゼル自身何かしなくてはならないとは思っていたが、マニシの考えているようなことが身の安全につながるとはどうしても思えなかった。
「俺はやらねえよ。第一お前らを置いて俺だけトンズラこくってのは、俺の流儀じゃねえんだよ。いいか、マニシ。もっとマシな事を言ってくれりゃあ俺も同意する。けどよ、今のお前の提案には反対だ。それだけだ、いいな?」
マニシは黙っていた。また何か考え込んでいた。
こんな長い夜ははじめてだとパーゼルは思った。一度だけゴブリン兵が水を飲ませに来ただけで、あとは放っておかれた。
監視にはオーク兵が一人ついていた。ただそこに立っているだけで耐え難い威圧を感じさせた。時折発する唸り声が生殺与奪権を主張していた。
「あ、あのぅ、オークの兵士さん。お願いがあるのですが」
パーゼルがマニシに止めろと言う前にオーク兵が反応してしまった。濁った眼でマニシを見下ろし、鼻から荒く息を吐いた。
「やめろ、マニシ」
パーゼルは言ったがマニシは聞かなかった。
「黒いボボ・オーニという方はいらっしゃいますか?あなた方の偉大な長だという話を聞きました。もしそうであればこのキャンプにもいらっしゃるのではないかと思うのですが?もしもいらっしゃれば話をさせていただきたいのです。わたしは先ほどのシャーマンと同じ琥珀の杖の所有者です。話をする権利があると思います。何の話をしたいかと言えばそれは神々の不在についてです。これはたとえどのような種族にとっても決して単独では解決できない問題です。もちろんあなた方にとってもです。ですからどうか話をさせてください。私の言葉が分かりますか?」
「分かるわけねえだろ、人間の言葉なんか」
パーゼルはマニシに言った。やはりマニシは聞いていなかった。
「話をしたいだけです。する必要があるのです。どなたでもいいのです!誰かわたしと話をしてください!」
馬鹿野郎が、とパーゼルが呟いたのとほとんど同時だった。オーク兵がマニシに背を向け歩き出した。そして少し歩いて振り向いた。肉食獣が退屈な時に出すような声をマニシに向けて発し、それからまた歩き出して獣皮のテントの間をぬってどこかへ行ってしまった。
マニシはパーゼルを見て喜びの声を上げた。
「パーゼル!通じましたよ!彼は誰かわたしと話をしてくれる人を探しに行ってくれたんです!これでもう大丈夫です!パーゼル!もう大丈夫ですよ!」
流石のパーゼルもこれには驚いた。敵を殺し、肉を喰らい、さらに殺して肉を食い、もっと殺して肉を貪ることしか頭にないはずのオークが人間の言葉に反応することなどあり得ないはずだった。しかし今目の前で起きた事は否定のしようがなかった。マニシの言葉をどう理解したかは定かでないが、たしかに何かをあのオークが感じたことは疑いようもなかった。パーゼルは控えめに言って、度肝を抜かれた。まだ誰にも知られていない英雄に出逢った気分だった。
「マニシ。厨房の僧じゃなくてもっとサマになる二つ名は持ってねえのか?厨房の僧じゃあ、俺の物語を歌う吟遊詩人がやりづれえだろ?」
「厨房の僧でいいですよ。わたしはずっとそう呼ばれて来たんですから」
「じゃあ、俺がなんか考えてやるよ。サマになるやつをよ」
「ええ、お願いします」
ふたりとも自然と笑っていた。ポニーのロモも笑っていた。逆さになっているので笑いづらそうだった。
そして一行は待った。何かの変化があるはずだった。その詳細を考えると不安にならないでもないが、今はそれより期待をもっていたかった。神無き時代という酩酊者の冗談としか思えない時代であっても、それくらいはしてもよさそうだと思った。
はたしてそれが運命の目にどう映ったかは分からない。
夜の闇の向こう、ゴブリンの叫びとオークの咆哮が巻き起こり、何かが一行へと迫ってきた。それはまさしく何かだった。巨大な何かだった。
ロモが急に暴れ出した。マニシはロモに身を寄せて落ち着かせようとしたが無駄だった。ロモは吊るされたまま揺られ、苦しそうにしたがそれでも暴れるのをやめようとしなかった。
パーゼルはじっと闇の中を見つめていた。迫ってくるものを注視していた。出来る事ならロモと同じように暴れて身をよじりたかった。しかし出来なかった。何かがそれをさせなかった。それは脅威と呼ぶ以外にないものだった。