オーク軍の野営地はパーゼルが予想した通り、王都から10日ほど歩いた距離にあった。が、実際には一行はさらに数日歩くことになってしまった。
パーゼル一人であればもっと早く到着しただろうが、ろくに旅もした事のない僧のマニシと、鋤を引かされたこともないポニーのロモが一緒ではそうもいかなかった。
先が思いやられた。彼らを置いて行方をくらますという誘惑に何度か駆られはしたが、もしそうしてしまえば彼らの身に何があるか分からなかった。最悪の場合、オークの斥候に発見され、食われてしまうだろう。パーゼルの哲学によればマニシもロモもそのような目に遭ういわれはなかった。何より恩があった。それを無視するのは彼の美学に反した。大盗賊の伝説にそのような不義理は似合わないのだった。
「もうそろそろでしょうか?」
「ああ、もうそろそろだな」
バケモノどもの姿をその目で見なくとも風に乗って漂う匂いで知れた。
醜く巨大なオークどもがすぐ近くにいる。パーゼルは自然と体が緊張した。
「それで?怪物見学はどの程度やるんだ?おおよその規模を把握したり、攻城兵器を確認したりするのか?」
聞くとマニシは首を左右に傾げた。何か言いたそうだった。
「話を聞くのは、やっぱり駄目でしょうかねえ?」
「話を聞く?」
「はい」
「だれに?」
「いえ、ですから、オークの方々に」
「マニシ。お前、オークってどんな生き物だか知ってんのか?」
「人を食べるんでしょう?」
「お前の事も食べるんだぞ?」
「わたしもですか?」
あきらかにマニシはとぼけていた。王都暮らしの彼でもオークの食の好みくらいは知っているはずだった。
「お前なんかはあいつらにとっちゃ最高のご馳走だろうな」
「そこをなんとかなりませんかねえ」
「なるわけねえだろ」
大盗賊として数々の伝説を誇るパーゼルにはマニシの考えがまったく理解できなかった。何によって彼がこんな突拍子もない考えに至るのか、その根源となるものがどうにも見えてこなかった。神の啓示を受ける者とはこんな呑気な者なのだろうか?月夜の子として影から影へとエルダリア中を渡り歩いても、まだ分からないものがある。口にこそ出して言わなかったが、パーゼルはマニシの事を出会った者たちの中で最も愉快な変人だと思っていた。正直に言えば「飽きない奴」だった。
「あいつらにとっちゃあ音楽の神マシウスの遣いなんざあ、にわとりの足ほどの価値もありゃしねえぜ?マシウスの名前も知りゃしねえよ」
マニシはロモと顔を見合わせていた。まるでロモに知恵を貸してもらっているかのようだった。
「彼らには信じる神がいないのでしょうか?」
「いや、いるよ。けど名前は知らねえな。いわゆる英雄神みてえなもんなんだとか」
「でしたらきっと僧侶や神官のような者もいるでしょうね?」
「シャーマンならいるって話だ、噂だけどな」
「そうですか。やはり彼らにも神に仕える者がいますか」
マニシは考え込みながらロモの首を撫でた。ロモは満足そうに頭を上下に振った。
「シャーマンにだったら話が通じるかも、なんて思ってねえだろうな?」
「え?いけませんか?」
「正気かよ?相手はオークなんだぞ?」
「それはそうですが、神に仕える者同士通じ合えるものがあるんじゃないかと」
「お前、脳みそまで鍋に入れて煮たんじゃねえの?」
「覚えている限りではそういう事はありませんでした」
「ああそう」
何をどう考えてもマニシの言っている事には無理があった。オークが交渉を受け入れた例はどのような歴史書にもない。パーゼルは歴史書に記載のある秘宝が好みだったのでそうしたことに精通していた。
「なあ、おい。ちょっと待て。向こうから来る奴らを見てみろよ」
「ああ、あれはゴブリンですね?」
パーゼルが指さした方を見てマニシは何かに安堵したような笑みを浮かべた。パーゼルは手をマニシの肩にのせた。
「隠れるぞ。こっちだ」
「でも少しお話を」
「出来ねえって言っただろうが」
マニシとロモを茂みの中に押し込んでからパーゼルは身を低くしてゴブリンの様子を窺った。2匹いるがこの距離ならばまだ見つかる危険はなかった。
「声を立てるなよ、いいか?」
マニシはうなづいた。ロモも言っている意味が分かったのか頭を上下に振った。
2匹のゴブリンは注意深くあたりを見ながら小走りしていた。方角からして王都に向かっているわけではないようだった。野営の周囲に異変がないかを探る斥候であるらしかった。
体の大きさや貧相な武装を見るに、パーゼル一人でも何とか相手が出来そうだった。このままやり過ごせるが何かあれば戦うしかない。パーゼルは念のため2本のダガーを抜いた。その時だった。
「パ、パーゼル!」
マニシの悲鳴だった。それを聞いた瞬間にパーゼルの背中に鳥肌が立った。前方の斥候二人組に気を取られ、気づかないうちに別の斥候にマニシが襲われたという悪夢を垣間見た。それだけは在りうべからざる間違いだった。
しかし、振り返ったパーゼルの目に映ったのは、そのような事とは無関係の、あまりにも奇妙な出来事だった。
「つ、杖が!パーゼル!」
「な、なんだ、そりゃあ?」
マニシが宙に浮かんでいた。彼の狼狽ぶりから自分ではどうすることも出来ない様子が窺える。そしてそれはどう見ても、中空へと浮かび上がる琥珀の杖にマニシが必死でしがみついてる姿だった。
ロモが後ろ脚で立ち上がり、前脚を振り回し懸命にマニシを救出しようとしているが、蹄が法衣の端に触れる事もなかった。それを補うようにロモは情けない嘶きを発していた。
パーゼルはダガーを握りしめたまま跳躍し、マニシの脚に飛びついた。しかし浮遊したマニシは中空で静止したままだった。何かの力が作用しているのはあきらかだった。
「マニシ!何してんだ!」
「杖が急に浮かび上がったんです。掴んだら手が離れずにそのまま・・・。パーゼル、彼らが来ます。そんな!武器を構えています!」
「ああ、見えてるよ」
斥候のゴブリンが短い槍と大きく湾曲した片手剣を構えながらこちらに向かって走ってくる。パーゼルが思っていたよりも速い脚だった。もうマニシにしがみついている場合ではなかった。
「そこにいろよ」
「そうします」
マニシが苦しそうに言うのを聞くとパーゼルは下へ飛び降りた。やわらかに着地するとロモの鼻面を押さえ、後ろに押した。意外にもロモが抵抗したのでもっと強く押して、都会暮らしのポニーの出る幕ではない事を示した。
短い槍を持ったゴブリンの方が足が速かった。最初の接敵はそちらになるらしい。そうであればとパーゼルは頭を低くして構え、慎重に前進した。
湾曲刀のゴブリンが何事かを叫ぶと槍のゴブリンが少し振り返って返事をした。会話はいわゆる「獣の声」でなされたためパーゼルには内容が分からなかったが、その様子から湾曲刀の方が隊長格だと知れた。
(だからバカだってんだよ、お前らは)
槍のゴブリンは足の速さに任せて突進してくるようだった。大盗賊パーゼルをもってしても感心させられるほどの速さだった。
パーゼルは低く構えている。2本のダガーはほとんど地に刺さらんばかりの位置だった。
(愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶってか?)
ゴブリンは槍を上下左右に振りながら駈けてきた。穂先を固定しないことでどこを狙っているか敵に読ませない古典的な技術だった。
パーゼルは姿勢を崩さなかった。下手な動きで相手を図に乗らせるのは彼のプライドが許さなかった。ぎりぎりまで待った。敵は必ず直前で何か大きな変化を仕掛けてくるはずだった。そしてそれはやはり仕掛けられた。
ゴブリンは槍をパーゼルの頭に目掛けて投げてきた。彼らのよくやる戦術だった。
頭を動かしただけ槍をかわす。その勢いは貧弱ではあったものの狙いは非常に正確で、もしもパーゼルが何の反応もしなければ口から首の後ろへ槍に貫かれていた。
ゴブリンは飛び上がった。やはりそうかとパーゼルは思った。彼ら「怪物の血の者ら」は自分の爪と歯を大胆に使う事がよくあった。幼稚な技術に思えるがそれは実際効果的だった。多くの放浪者や不注意な村人がその犠牲となっていた。
姿勢をさらに低くすると同時にパーゼルは瞬発力を発揮した。飛び上がったゴブリンの直下をすり抜け、隊長格のゴブリンに肉薄した。
隊長格のゴブリンはパーゼルの俊敏性に反応しきれなかった。彼が最後に見たものはパーゼルの口元の笑みだった。鋭い2本のダガーがゴブリンの脇腹に深く突き刺さった。怪物の命の火はダガーが抜かれる前に消えていた。
槍も戦闘技術も失ったゴブリンは隊長の死に驚き、怯えた。恐怖に支配された心が悲鳴となって発せられ、響いた。
ポニーのロモは勇敢だった。怯えて惨めにのけぞるゴブリンに強烈な頭突きをお見舞いした。
前のめりに倒れたゴブリンはそれでもなお怪物らしい足掻きを見せた。必死に地面を引っ掻き戦いの場からの逃走を図ろうとした。その姿はまるで地中から引きずり出されたミミズのようだった。
ゴブリンに出来る事は何も無かった。怯え過ぎて自分の手足ですらまともに扱えていなかった。その姿をどう評価するのかは戦士の考え方の違いによる。死から逃れる為ならばどんな醜態をさらしても構わないとする戦士と、たとえ死が眼前まで迫っても威厳を保たなければならないとする戦士とがいる。
パーゼルは前者だった。そうした意味では彼はゴブリンを尊敬していた。この醜態は正当なものであると考えられた。そしてそれを終わらせてやるのが自分のすべき事だとパーゼルには分かっていた。
逆手に持ち替えられたダガーがゴブリンの背中に深々と突き刺さった。断末魔の叫び声は響かなかった。パーゼルは怪物の吐息を聞いただけだった。それはすべての苦役を終えた鉱山奴隷がもらす最後の吐息のように安らかなものだった。
「気味の悪い声出すんじゃねえよ」
大盗賊パーゼルの美学によれば、死んでしまっては何にもならない。王様も乞食も死ねば「はじまりの光」へと還る。パーゼルはそのことに多少の理不尽を感じないでもなかった。が、妙に説得力のある話だとも思うのだった。
「おい、マニシ。大丈夫か?」
「あの、ええ、なんとか」
マニシはまだ宙に浮いていた。杖の力で浮いているに違いないが奇妙な光景だった。厨房の僧から中空の僧に通り名をあらためるべきだとパーゼルは思った。
「降りられねえのか?」
「出来そうにありません」
「はっ、そりゃいいな。さぞかし遠くまで眺められることだろうよ」
「ええ、もちろんです。ただ、今はそれがあまり良い事とは言えません」
ロモが鼻で腹の辺りをしきりに押すのでパーゼルは鼻を押し返した。
「一か八かで飛び降りてみるか?」
「そうしたいのは山々なんですが、パーゼル、あのぅ」
「え?」
「わたしたちは囲まれてしまったようです」
パーゼルは振り返り、右を向き、左を向き、また別の方に振り返り、くるりと体を回転させた。30匹はいるであろうゴブリンの部隊にすっかり包囲されていた。
状況に相応しい悪態が口から出て来なかった。こんな最悪な状況は今までに経験したことがなかった。誰より賢く素早い月夜の支配者であるはずの大盗賊パーゼルともあろう者が、一体なぜこんな状況に身を置いているのか?それは運命の流れに違いなかった。少なくとも彼にはそうとしか説明の出来ないことだった。
「あぁ、パーゼル。つ、杖が」
マニシが降りてきた。地に足がつくと琥珀の杖をしっかりと握りしめて言った。
「やっぱりこれを持ってきたのは間違いではなかったようです」
マニシは笑っていた。パーゼルは笑っていなかった。ゴブリンたちの囲いの外から大きな影が近づいて来る様子を注意深く見ていた。オークだった。それもかなりの大きさに成長したオークだった。
パーゼルは言った。
「マニシ。俺は誰かのために何かをしてやった事なんざただの一度もねえ。だからこれが最初で最後だ。俺が血路を開く。お前はとにかく死ぬ気で逃げろ。何があっても振り返るんじゃねえ。王都に辿り着くまで止まるな。ロモの事は・・・あきらめろ。いいな?」
パーゼルは2本のダガーを握り直した。手が冷たくなっていた。
「ですが、パーゼル。そうもしていられないようです」
「それしかねえ。やるしかねえんだよ!」
「パーゼル。あれを見てください」
マニシは巨大なオーク兵士を指差した。その時、兵士の後ろからボロボロの黒衣を身にまとったひどく年取ったオークが姿を見せた。長い杖をついていた。
「おい、まさか、あれは・・・」
「はい、パーゼル。あれは・・・、琥珀の杖です」
杖には琥珀がついていた。何故かそれがマニシの杖と同じ琥珀の杖なのだと、ふたりには確かに分かるのだった。