それは大きな穴ではなかった。ザックを背負ったままでは入れなかった。
グラッジロックは暗い森の中でひとり、あご髭を荒くこすって考え込んだ。
入るべきか、入らざるべきか。
フクロウの鳴く声が聴こえる。早く決めろと急かしているようだった。
周囲に敵の気配は感じない。しかし決断は早い方がいい。
「賭けてみるしかない、か」
重く沈んだ声は彼の厚い胸板の中に溶けていくようだった。
ドワーフは一度そうだと決めればどんな危険があっても行動に移す。
彼らの頑固さが生み出せない悲劇・喜劇はない、という名言を遺したのはエルフの王である。どのエルフの王が言ったのかは古すぎてもう記録に残されていない。
まだ死んでいない木を慎重に選びロープをくくりつけ、反対の端にザックと愛用の斧を結んだ。穴の深さは分からないがとりあえずこれで降りられる所まで降りてみるつもりだった。
ひとりの旅で正解だった。誰かがいれば必ず無謀だとたしなめられたに違いない。
ゆっくりと荷物を降ろしていく。腕にも脚にも十分余力はあるので焦る必要はない。
「まあ、やはりそうなるか」
ロープは長い。かなりの深さまで降りていけるはずだった。
が、穴の底に荷物が到達する前にロープが伸びきってしまった。
危険があるのは当たり前。そしてやってみなければ分からない事がこの世界には満ちている。神々でさえエルダリア大陸のすべてをご存じではない、とは一体誰の言葉であったろうか?
むうう、と声とも息とも聞き取れない音を吐き、グラッジロックは穴の中へと降りて行った。
光も音もない深淵。大きな背中がその中へ飲まれていった。
ぶつっと音がした瞬間、グラッジロックはため息の出る思いがした。
「まったく不運続きじゃ」
そう呟いた声が自分に聴こえるよりも早くドワーフは穴の底へと落ちて行った。
ロープは自分の目で直接選んだ。たしかな品だった。これなら自分のあご髭と変わらないくらいに頑丈だと思った。しかしそれは旅に出る前のことだった。
なにもかもを腐らせるゴブリン沼を通った事をすっかり忘れていた。
臭い泥に膝まで浸かり何匹もの小鬼を叩き伏せた。あんな連中に遅れを取るなど考えられもしない事だった。
しかしその血と沼の瘴気がロープをすっかり腐食させていた。
過去にあった事など何一つ覚えていない。いつも前進あるのみ。それがドワーフであり、グラッジロックはドワーフの中のドワーフだった。
それを不運と呼べばたしかにそうなのかもしれない。ドワーフの気質を陰で嘲笑する者は少なからずいる。
しかし、冒険の始まりとはいつもそのようなものであった。
何かに導かれていない者などエルダリアには一人としていないのだった。
穴はわずかながら傾斜していた。グラッジロックの丸々とした体は文字通りその傾斜を転がり落ちて行った。
天も地もドワーフを小突き回して面白がっているようだった。
ようやく仰向けになって体が停止すると、忌々しい穴の口がはるか頭上にとても小さく見えた。戻る手段はない。
「なんという事じゃ」
グラッジロックは独り言が好きだった。一人旅も好きだった。好きなだけ好きなように独り言が言える。彼のような強いドワーフは本来絶対に弱音など吐かない。いちいち独り言について、何だそれはと誰にも言われない孤独を彼はこよなく愛していた。
が、しかし、深く邪悪な穴は彼をひとりにはしてくれなかった。
刃と刃が擦れるような鋭い声。不快な吐息。平たく重い足がにじり寄る音。
「少しくらい休ませろ、トカゲめ」
闇の中、赤い二つの目がグラッジロックを見ていた。獲物を見る目だった。
悪食の、腐肉喰らいの、最悪と呼ばれる部類のジャイアントリザードだった。
固い土を掘るために爪は大きく鋭い。上下の歯はさらに大きく鋭い。牛の首をかみ切るほどだった。
ドワーフは闇の中で目を凝らし、自分の愛斧を探した。無い。少なくとも手元には無い。ザックは失っても構わないが、あれだけは失うわけにはいかない。
武器になれば何でもいいという戦士もいるが、グラッジロックはそんな考えを否定する。戦士としての誇りを軽視するものだと考える。
グラッジロックは自分の斧に「勝利の翼」という名をつけていた。大きな両刃の斧で、一見よく見るドワーフ戦士の大柄な斧だが、その実彼の出自を表す唯一のものだった。あれだけは絶対に無くすわけにはいかなかった。命に代えてもなくすわけにはいかないものだった。
「ふん、貴様ごときに」
そう言いかけた時、重い音を立てて彼の斧が目の前に落ち、地面に突き刺さった。
深い闇の中、斧はうっすらと光を放っていた。ミスリルの放つ光だった。彼の斧ほど贅沢にミスリル鋼を使った斧はなかった。
生き血滴るあたたかい肉を期待していた巨大なトカゲが斧を見て後ずさった。神聖なミスリル鋼に拒絶反応を起こしたのだ。
「わが友よ、いや、俺自身である俺の大きな斧よ。このトカゲが俺達をもてなしてくれるらしい」
グラッジロックは斧を地面から引き抜き構えた。トンネル暮らしの長かった彼の目がわずかな光の中で敵を正確にとらえた。
ジャイアントリザードは大きく口を開けて叫んだ。まだご馳走を諦めたわけではなかった。
もしもジャイアントリザードに言葉があったなら「血だ、肉だ」と叫んだのだろう。
邪悪なリザードは冷たい肌を震わせてドワーフに向かって突進した。
「王国のために!」
グラッジロックも答えて叫んだ。咄嗟に口が滑ってしまった。誰にも聞かれていなければよいが、と思った。
ドワーフの豪快な一撃がジャイアントリザードの脳天に見事に命中した。ここがもしも闘技場であったなら拍手喝さいが沸き起こったことだろう。
しかし経験豊富なドワーフは満足していなかった。突進を止める事はできたかもしれないが、致命的な一撃とはなっていないことを彼はよく知っていた。
リザードが荒く息をする。食った死肉の匂いが穴底に充満する。
リザードはゆっくりとドワーフの右側に回り始めた。
ドワーフの戦士もそれに合わせて回り始めた。
さながら秘密のダンスのようだった。
必ずどちらかが死に至るであろうダンスだった。