娘が両親を殺す時代をなんとかしないと… | バーテンダーは心の名医

娘が両親を殺す時代をなんとかしないと…

 先生、どうしてこんな時代になってしまったのでしょうか。

 娘が両親を殺す時代、先生はどのようにお考えですか。

        (しあわせになってほしいと両親が名付けてくれた幸子)

 日本の夏は 蚊帳の夏 だった。

 冷房も冷蔵庫なく網戸もなくブーマもなく、縁側の戸を開け放って 蚊帳 で家

 族一緒に寝ていた。どこの家もどの家もみんな戸を開け放って、戸締まりなん

 かしてなかった。朝ごはんは、顔を洗って清々しく家族そろって食べていた。

  食事が終わると自分の茶碗やお椀、お箸はきちんと自分で台所に運んだ。

 毎日に家族の連帯感があった。食事中はまだテレビはなく両親が素養の先生

 だった。頑張っているか と父のひと言があって、早起きして母が薪で焚いてく

 れたご飯をサクサクと食べて学校に行った。

  朝の早い八百屋のおじさんが、魚屋のおばさんが、豆腐屋の兄さんが お

 はよう と声を掛けてくれた。もちろん。僕も精一杯おおきな声で おはようござ

 いますと答えた。

  戦争後でとても貧しかったけれど、みんな明るく生きていた。

 

 資格や教室の一カ月や二カ月で左甚五郎にはなれないことをみんな知ってい

 た。どなたもどなたも勤勉だった。家も手伝った。お母さんを手伝った。

  家族一丸で生きていた。週休半ドンで日曜出社という時代だったが、家族は

 世間に誇れる仲良し家族だった。

 ところが、

 アメリカ視察でパクってきた人たちが、バイトでも素人で出来るチェン店で

 他県にまでに店を出し、安穏な町がケンケンしだした。

 一気に、生活が、生きるが、競争になり戦争になった。

  学業が家業が戦争に巻き込まれる時代になった。

 

 今は子供の名前に 幸子 は見ない。幸平も見ない。

 家族で揃って寝た蚊帳もない。

 そして、家族が二世帯住宅になって空き家が増えて、町が消えた。