記憶が鮮明なうちにどうしても綴っておかねばならない、と感じたことがあります。
たった75分のトークで、それはとても軽快で愉快な性質のものでしたが、不覚にも胸がキュンとなってしまって泣きそうになった瞬間があります。
それは、江國さんが、
「人は人を失わない。会えなくても、失っても、記憶の中にいる。そして、それは人を強くする」
そう言い放った後でした。
もう、この年齢になったからこそ、その言葉が十分にわかり過ぎるくらいわかってしまい、どうしても涙が出そうになったのでプライドをかけて真剣にこらえてみました。
すると、涙は出てこなかったのですが、ああいう時って、汚い話ですがじんわりやんわりと鼻水が出てくるんですね……
知りませんでした。
それで、涙は出なかったものの、鼻水が出てきてしまい、それを拭うと隣の人に「あっ、この人、全然泣けないところで泣いていて、おかしい」と思われるのが癪に障るから、なんとか放置しようとしました。
でも、やっぱりハンカチが必要になり、下を向いてごそごそと鞄の中からハンカチを取り出しました。
そして、いかにもちょっと風邪気味だもんワタクシ、といった様子で、ハンカチを口にあててゲホッとわざと咳をしてみました。その隙間に鼻水も拭いました えへへ。
この名言が出たcontextuality(文脈)はこういうことでした。江國さんはとうとう父母の両方を亡くし、「本当にひとりだ」とふと思う時があるそうです。
彼らは自分の記憶の中だけになる。
愛した人、愛してくれた人は、記憶の中だけになっていく……。
でも、人は人を失わない。
会えなくても、失っても、記憶の中にいる。
そして、それは人を強くする。
例えば、毎週末デートをする恋人にしたって、ウィークディ月~金の5日間は記憶の中だけにいる。極端な話、夫婦だって毎晩夜は一緒ですが、日中はむしろ全然会えない。会社の人間の方が人生の多くの時間を共有する。日中は記憶の中だけの妻を夫を思い出すしか術はないのだ。
結局、人と人との関係性は、記憶の中で繋がっている。
悲観的に捉えるのか、楽観的に捉えるのか。
私はこの時たぶん過去に大好きだった人を思い出した。いつも、いつだって記憶の中だけにいた彼。今は失ってしまったけれど、江國さんに言わせれば、失ってなんかいない。ずっと記憶の中にだけ居るもん、と……。
先日亡くなった祖母をも思い出した。
泣いたんだけど、悲しくて泣いたわけではなく、江國さんの言葉によってとてもあたたかい気持ちになって不覚にも泣けてしまったんだと思います。