『人生は、だましだまし』 | 読書至上主義

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毎日1冊は本を買ってしまうワタクシの雑感です。

久々にヒットした作品がありました。先日、新幹線に乗る前にJR品川駅構内の書店「ブックガーデン」に立ち寄った時購入しました。店員さんが書いたPOPに惹かれたためです。これは出版社がマーケに使用しているものではなく、ブックガーデンの店員さんが書いたもの(たぶん)。詳細は忘れたのですが、「女子必読。P.47~「いい男」をまずは読んでみて下さい」みたいな内容だったはず。私はその言葉から異常な熱ラブラブを感じたので、ご指示通り、素直に立ち読みしたらハマってしまいましたメラメラ 田辺聖子おばあちゃま、やっぱり面白いんですよアップ さすが80歳近くになる年配の方が言うことには説得力があります。「いい男」論が丁寧に展開されていました。関西人の持つユーモア、加えて、肩の力が抜けている感じも素敵で音譜


読書至上主義-『人生は、だましだまし』
『人生は、だましだまし』 田辺聖子著


24のエッセイが収録されています。タイトルはそれぞれ、興味をそそられます。「究極のあわれ」「金属疲労」「いい男」「家庭の運営」「上品・下品」「ほんものの恋」「血の冷え」「ほな」「結婚は外交」「ヒトと暮らす」「人間のプロ」「別れ」など……。各エッセイには、田辺聖子氏が思いついたアフォリズムが必ず2つか3つ織り込まれています。それが、良いんです!!クラッカー合格 私にとっては彼女が使う漢字が難しく、1ページに1個は意味不明のが出てきます。面白いエッセイを読みながら、頭が良くなります、ハイべーっだ!


個人的に気に入った部分を身勝手に抜粋します音譜


ブーケ1「いい男」

いい男とは、可愛げのある男である。人に好かれる男を見るところ、あまり突出した自分の主義信条、趣味嗜好に固執しない男のようである。といって、なんでもかんでも融通して折れてしまうというのも魅力がない。男はそんなに円熟しなくてもよい。角熟でよい。男の沽券というのがあるが、ときどきそれを出して見せたらよい。定期券みたいなものだ。私は<男の沽券定期券説>である。沽券を出したり、ひっこめたりしている男は可愛げがあるというわけである。主義信条を出したりひっこめたりするところに、人間の器量が問われるわけ。失敗談や弱音を正直に吐くのも可愛げのうち。

<いやァ、もうニッチもサッチもいかへん。モロ、グリコの看板>(大阪では“グリコの看板”はお手あげという隠喩)

などといいつつ、ニヤニヤしていたりし、ある種の男にとってのニヤニヤ笑いは、泣く代りであろう。その代りまた、いいことがあると、自分が浮かれていることを、他人に悟られて平気である。…要するに、すこし、<おっちょこちょい>度もまじっているのが<可愛げ>であろう。…というのは、<可愛げ>というものは、意地悪から遠い、という認識がある。


クローバー「家庭の運営」

臭いものには蓋。それは家庭の幸福。

「家庭の幸福は諸悪の本」(『家庭の幸福』)といったのは太宰治で、このアフォリズムは人口に膾炙(かいしゃ)しているが、その意味は、人々にどんなふうに受けとられているのだろうか。太宰は家庭の幸福とはエゴのかたまりだからだ、と作品の中でいいたかったようにおぼえている。それにしても、他が鼻白むほどの幸福な家庭、というものが、現代にもあるのだろうか。(新婚家庭は除く)

そうか、<家庭>というものは、人が、<面白疲れ>したときに要るのだ。

人間の疲労の中には、病気、労働、ストレス、などからくるほかに、あまりに面白くてうつつをぬかしているうちに、疲労が蓄積していくのもある。面白いのは、人間関係だけではなく、趣味もはいる。その程度が社会的許容範囲であればよいが、バクチ、漁色、飲んだくれ、浪費、変態、ワルイことはたいてい、面白いだろう。それらは家庭の幸福や平和の対極にある。しかし、<面白疲れ>したときに帰る家があればこそ、面白いことにうちこんでいられるのだ。

その帰る家が、いつまで、あるのか。

家庭の運営、というものは、だましだまし、保たせるものである。


バレンタインチョコ「血の冷え」

よって私の考えたアフォリズムは、

結婚式はすべてを水に流させるものであり、葬式は水に流したことをまた、むしかえさせるものである。

…血は水より濃い、といわれたが、昨今ではどうだろうか。よって、私のアフォリズムは、その二。

血は水より薄し。

あるいはこれを解説してアフォリズムになおすと、

親子だからといって気が合うとは限らない。

伯父(叔父)さんだからといって意見してくれるとは限らない。

ということになる。気の合わない肉親は他人より始末がわるい。家庭内暴力などの問題児に、もはや現代の両親で、どのくらいの割合の人が対応できるであろうか。どうしたらいいんですかねぇ……とつぶやきつつ、仕方がない、目の前の仕事へ逃げて<ぼくは会社がある>と蒼こうとして出勤してしまう。妻も勤めていれば同じようなものであろう。

…昔の<伯父さん><叔父さん>はそんな地位にいた。子は父親に反撥しても伯父さん叔父さんには、いささかの遠慮もある。ところが、伯(叔)父は、甥だからといって手心しない。父親より居丈高に意見する。若者も、父親は殴れても伯(叔)父は殴りにくい。それを見越して伯(叔)父さんも容赦なく叱りつける。「盃 出して 伯父を静める」(『俳諧 武玉川』)


天使「ほんものの恋」

好色な人は男も女も、人生、たのしそうに生きている。

こう、ぶちあけると、あとは百家争鳴になった。イチブン氏はいそぎ、口を出す。<われわれ熟年にとって、やっぱり究極のあこがれは、好色やいろごと、というより、恋やなあ。一世一代のラストの恋をして、この世をおさらばしたい、ちゅう、せつない望みがあるなあ>

<恋といろごとと違うんですか>と挑発的に鼻で嗤うのはフィフティちゃん。

<そらそうですよ。いろごとは何や、レンタルっぽいけど、恋は買い取り制、という感じですがな>

…若いときは、この二つをいっしょくたにしている。

…早速できたアフォリズム、二つ。


愛する、ということこそ人生の主役であって、そこへくると愛されるってほうは、人生の脇役にすぎない。


究極の恋は手も握らない関係に尽きる。


それを披露するといままで黙っていたおっちゃんがいった。

<何が究極じゃ。男と女の究極は、二人で漫才やって楽しんで、そんで二人で寝る、これに尽きるんじゃっ>

これはうやむや、ナアナアではなく、はっきりしてる、ということで、また飲み直しになる。


ハートブレイク「ほな」

別れ、という言葉を心で思いついたこと自体、決定的である。

…よって別れのアフォリズムその三、としては、

<また電話するワ>というのは最高の別れのメッセージである。

人は、人と別れのとき、いつどこでまた会ってもいいように、良好な関係のまま別れないといけない。広い世間のこと、自分が世話にならなくても、自分の知己友人の輪のどこに人脈がつながるか、しれはしない。そこが世間の面白いところで怖いところ。

…<また電話する>では、まだ脂っこい。

よって私の考えた別れのセリフ、これは別れだけではない、人生すべてのものに対して心構えともいうべきアフォリズム。


人生でいちばんいい言葉は、

<ほな>

である。


この<ホナ>は大阪弁なので少し説明が要る。接続詞で<ほんなら> ― それなら、ということ。じゃあネ、などという語感か。


以後、<ほな>の説明は続きます。

ここで抜粋すると面白さが半減、激減で田辺聖子氏に申し訳ないのですが、すごく楽しくてためになるエッセイ集でした。ブックガーデンの店員さんに今御礼を言いたいです。その人の仕事が、一人のお客の心を打ったことを私は伝えてあげられたらなんて素敵だろう、と思います。ましては、彼か彼女が知らないですが、万が一、今仕事で悩んでいたりしたら(自分の持ち場の売上数字がイマイチ、とか)、やっぱり私は伝えてあげるべきだと思うのですよね。でも、勇気が要りますが。


だから、私は「あっ、この本いいな」と思ったら、すぐにその書店でその本を買います。その時決断できない場合でも、同じ書店にまた行って買います。絶対に、他の書店では買わないし、アマゾンでも買いません。だって、その書店の店員さんがきっちりマーケティングを行なってこの作品をいいと思って、リスクをかけてお金を払って本を仕入れたのですから……。店長に営業数字についても詰められるでしょうしね。店員さんの想いを大事にしたいですニコニコキスマーク