久々の更新である。私はいま、鎌倉在住です。そしてなんと、料理を生業にしている。もう此方に来て一年が経つ。なかなか面白い日々だ。そして客観的にみて面白い人生だ。主観的にはそれほどでもない。

   色んなものと距離を取りたくて関西を離れてみた。特にここに居る理由は無いな、と思ったら、住みたい街に住んでみようと思った。候補の街は他に伊勢と松本だった。

   鎌倉は、住もうと思うまで一度も訪れたことの無い街であった。しかし、高校時代より憧れの街でもあった。大きくは澁澤龍彦夫妻が仲睦まじく過ごした街として、私のなかでずっと憧れの街であった。

   憧れの街であった鎌倉は住んでみれば、町であり、村でもあった。なんと狭いことか。持ち前のバイタリティと社交性が武器にも仇にもなり、随分と顔も広くなってしまった。

   先ず勤めた店が悪かった(いや、最高なんだけど)。鎌倉でも有名な立ち飲み屋の名店である。夜な夜な訪れるのは、鎌倉のアカデミックな紳士(?)達。画家、作家、写真家、翻訳家、などなど、一癖も二癖もある連中がカウンターを埋め尽くす。澁澤龍子夫人のご友人だっていらっしゃるのだ。私からすれば、That's 鎌倉な店だ。本が壁を埋め尽くし、アングラな芝居のポスターが天井に貼られている。こんな店を任されて、料理を振る舞い、お客様からもそこそこ愛されているなんて、鎌倉に生きている意味がある。

   住んだ街にはきちんと根付いた生活をする事、その街に住む理由がある事が、私にとって大切なこと。そういう意味では適っている。今では鎌倉と大船の二店舗ある店を行き来し、藤沢でも日月と間借りさせていただいている場所で料理を作る日々。おかしなものだ、料理が仕事になるなんて。

   そしてひとつ自分を褒めたいのが、ひとつも就職活動しなかった事。鎌倉には誰一人として友人も、知人さえも居なかった私が、ひとさまとのご縁だけで何処まで生きていけるか、という実験をしてみたのだ。来て数ヶ月は、人との繋がりを作る為の日々だった。一枚も履歴書も書いていない。好きな店に通って、偏屈なオーナーに気に入られて働き始めた、と言えば聞こえがいいか。まあ、そんなところ。ブログ名にも恥じない職場と言えよう。

今日はリハビリ。ここまで。
 保存していた文章。少し恥ずかしいけど、愛おしいので公開します。


2011年 10月17日 2:36




   テーマを決め、熟考し、長文を綴るということは自分との対話だ。なんだかそういう時間が無かったり、ふらふらと流されているのか、立ち止まって考える機会がありません。いや、そんなものは作らなくては生まれるものではないのかもしれません。

 何も無かったけれど、随分と色んなことがありました。あっという間だったし、そうでもありませんでした。ただひとつだけ断言出来ることは、何ひとつ無駄なことはありませんでした。すべては哀しく愉しく美しく、幸福で、不愉快でありました。けれどもどうでもいいことなどただのひとつも無かったのです。

 一番よくないのは無味乾燥であることです。泣いたり笑ったり感動したり、落ち込んだり、痩せたり太ったりしましたが、何一つスルーすることなく、すべて受け止めて、すべてに翻弄されて今に至ります。私は一体何処に向かうのでしょうか。全く出口も未来も見えない。妄想はいくらでも描けますが、建設的な未来などひとつもございません。

 幸せとは何かしらと考えます。私はまだ未婚だし、子供を産んだこともございません。そんな私のいま一番の幸せは、大好きなひととゆっくり朝ごはんを戴くことです。

 焚きたてのご飯と、だし巻き卵、お味噌汁、焼き魚、青物のお浸しか煮浸しか和え物がいつもの定番です。朝食が済むと、とびきりのお茶を煎れます。番茶だったり、煎茶だったりします。晩御飯よりも、朝食をゆっくり一緒に過ごせることが私にはとても幸せなことです。朝ごはんピクニックを提唱したいくらいです。朝ごはんピクニック!これは、もしかして、それなりの場所で声高に言うと流行るんじゃないかしら?「日曜日の朝は公園で朝ごはん!」とか提唱してみたい。

 刹那的な快感は快楽であり、長く細く続く快感は幸福なのだと申します。「幸福ってね、何も感じないことなのよ」これは太宰だったかしら?三島さんだったかしら。私には毎日色んなことが起こります。平坦ではないこの毎日、不安定である日々こそが私の安定です。

くだらないことで悲しんだり、怒ったり、心配したり喜んだり、感動したり出来るひとのほうが簡単に幸せになりやすいんじゃあないかなと思います。

私は阿呆ですので、毎日が私の五感を揺るがす大ニュースばかりでてんやわんやなのです。でも阿呆で良かったなあと思うのです。本当に賢いひとは阿呆の振りも上手です。したり顔の知ったかぶりほど阿呆に見えることはありません。

 賢く生きようと思えば快楽は諦めてしまうのでしょうか。安定を求めることが賢く生きることなのでしょうか。どちらでも構いません。

 いま思うことは、どうして私はブリジット・バルドーでもモニカ・ベルッチでもないのかしらということ。
   ずっとブログタイトルを無視した内容が続くこと、乙女座日和。が終了しないことを、先ずはお詫び申し上げます。

   さて、此処で書かねば何処で書く、という話ですので、書かせていただく。

   大阪の天満に、私が通い続けるイタリアンバルがある。ふらりと立ち寄ってから実に7年である。ベヴィトーレというその店は、小さいながらも、どの料理もよく出来ていて、値段もお手頃である。夜の0時になると、店主もメニューも変わるのも特徴だ。オーナーであり、0時までの店主のY君とももう7年の付き合いで、彼の結婚式にも行ったし( 7年の間に離婚もした )、数少ない私の親友と言っていい。

   ベヴィトーレで私はいつも、仕事を忘れて、泣いたり笑ったり、酔っ払って絡まれたり絡んだり、椅子から落ちたり( しょっちゅうである 。もうY君は驚きも、心配もしない。)何度か皿洗いでアルバイトした事もある。此方に通っているうちに仲良くなった方が、私の働く店まで来てくださった事もある。

   Y君の特筆すべきは、その優しさである。決してぱっと見は愛想よくもなく、話しかけやすい雰囲気ではないし、媚びもしないので、初めて来たお客さんなどは、素っ気ない印象を持つだろう。私も初めて食べたキッシュとパテがあんなにも美味しくなかったら、二度目は無かったかもしれない。けれども、気心も知れて、私以外にお客さんのいない日などに、深刻な話で私が泣きじゃくっていた時である。Y君はやっと来たお客さんを「すみません、今日はもう終わりなんで。」と帰してしまった。勿論、私が泣きじゃくっていたせいだ。申し訳ないという気持ちと共に、大変嬉しかった。

   五年程前だろうか。私が浴衣をきっかけに和装に目覚め始めた頃である。浴衣イベントやりたい、と私が言い出した。ドレスコードを浴衣にして、もちろんY君も浴衣で、1日だけ和食のお店やってよ、と。いや、俺が客で来るから、お前やれよ、との話になった。じゃあその日だけは bevitireではなく、着物だし、平仮名でべべとーれにしようか、と一頻り盛り上がった。

   という五年越しの企画が来週実現する。おばんざい べべとーれ。女将は着物にベレーの私。日本酒は実家の丹波の方で、小鼓と辛丹波のひやおろしを仕入れてきた。お品書きもほぼ完成。お料理は、卯の花、和風生春巻き、秋刀魚のすだちマリネ、ゆかりご飯のおいなりさん、おでんなど。営業中に流すプレイリストもApple music で作成。布看板は、師範の腕前の妹にお願いした。

   何を隠そう、仕入れから料理、営業までを全部一人でやるという事も初めての挑戦で、不安ではあるが、わくわくしている。長い間休憩中だった私にやんわりと復帰の場、挑戦の場を与えてくれたY君には感謝しきれない。

   今、妹から看板用に買って来たという大きな朱色の布の画像が届いた。とてもいい感じだ。当日、日本酒用のグラスが足りないかもしれないと、隣の店が幾つか貸してくださるそうな。たった一人での挑戦ではあるが、沢山のひとのお陰で実現したものだという事を忘れないでおこう。