大阪・関西万博が閉幕した。70年万博に行けなかつたといふ思ひが心の底に鬱積してゐて、これまでつくば万博や愛地球博にも行つてみてが、なんだかイベント会場を訪ねたといふ感動以上のものはなかつた。人々の熱気はあつたけれども、心に響く何かがなく、二つの万博は早々に引き上げた。

 大阪に移り住み、太陽の塔が見えるマンションに引越したのは、70年万博への思ひからであると言つても、たぶん人は信じないだらう。もちろん、さういふ人を説得しようなどとは思はない。けれども、私の中ではさういふことになつてゐる。偶然といふものはたぶんないのであつて、心が体を動かしてゐるのである。

 

 さて、では今回の万博はどうであつたか。本当に素敵な場所と時間であつた。太陽の塔のやうな、今の時代に物申す異質で異形の存在はないけれども、それを求めることができない時代であることを思へば、ミャクミャクの異形は十分に人々の心を刺したし、大屋根リングは現代建築への異化にはなつてゐた。国家的プロジェクトを損得勘定で評価するといふのが「見識」であると考へる時代にあつて、余りにも「べらぼう」な冒険であつた。開幕前の否定的な世風を思ひ出せばそれは明らかだらう。そんな風に逆らつていち早くピンバッジを買ひスーツの胸につけてゐた私だが、ミャクミャクの孤独にはかなはない。だから、大屋根の木組みをバックにミャクミャクが立つ、閉幕の翌日の新聞の全面広告には思はず落涙しさうになつた。「おはよう、未来」と書かれた文字が青空に浮かんでゐた。流れていくやうな時代状況のなかで、未来の到来だけを(もしかしたら幻滅の夜明けが起きたのかもしれないといふ)期待してゐる私たちの気分を代弁してくれてゐるやうに思へたのである。

 

 血が脈々と流れてゐる。その生命の力をかすかに感じた。それが私の今回の万博評である。幸せな時間であつた。