先日、前任校の卒業生から名古屋に行くので会へないかとの連絡があつた。GWの初日初めて祝日なのでこちらも休みなのだらうと思つたにだらう。あいにく全寮制の学校は祝日は休みではなく、通常通りの授業。ただ、たまたま夕方から時間が取れたので出かけることにした。

 もう一人卒業生も加はつて楽しい語らひの時間を過ごした。

 30歳を過ぎた彼らが今何を感じて何を考へてゐるのか、話題は多岐に渡つたが、そこに耳を傾けた。あるときは饒舌にある話題では訥々と話す様子は10年以上前の彼らのそれとは違つてゐて、もはや若き友人と言つた方が相応しい姿であつた。会社やそこでの人間関係や業務知識を通じて、世界への通路を様々に拡げて行つたといふことである。もちろんそれらを通してそれだけ彼らが成長したといふことも意味してゐよう。そして、嬉しいやうな寂しいやうな感慨であるが、こちらが知つてゐる「社会」といふものが相対的に狭くなつたといふことを意味するのでもあつた。

 もはやアドバイスも不要な語らひは、思ひ出話を挟みながらの歓談になつた。これから奈良に帰るといふので、ぎりぎりの時間まであつといふ間の4時間であつた。

 ご褒美のやうな時間であつた。

 生徒を前にした教師の態度は語りである。もちろん対話もある。その前提には傾聴もある。しかし、卒業生が思ひ出として口にするのは教師の語りであつた。口真似をしながら語りを再現してくれる。それはその思ひ出を共有する者たちを一気に笑ひに誘ふ。語りは学校の基本なのである。

 しかし、歓談の語らひは思ひ出にはなるまい。それは寂しいことではない。その時間にその報ひは十分に受けてゐるのだから。

 語り自体の力不足は、あるのだけれど……