「真の意味に於いて人間が歴史を作るといふことは、ただ日常の営みをする、何かを行動するといふことではありません。根本的意味に於いて歴史を作る者たる宇宙的意思へ、己の意思を合致せしめ、歴史作成者たる絶対者の定めたる歴史の目標に向つて己の行動を向ける時に、人は始めて真の意味に於いて歴史を作る者であり得る。」(矢内原忠雄「歴史と人間」)
同じ行動でも、時代を画することになる場合とならぬ場合とがある。それを一般に「彼が活躍できるには、少々時代が早すぎた」といつた言ひ方で説明されることがある。しかし、その「早すぎた時代」といふ言ひ方には誤魔化しがあるといふふうに矢内原には思へるのである。
時(宇宙的意思)と人の営み(己の意思)とが「合致」しなければ、歴史は生まれないといふことだ。
したがつて、その「時」を知らなければならない。しかしながら、その「時」を知ること自体がたいへんに難しい「人の営み」であるのだから、私たちは絶望的な時間の浪費を覚悟しなければ生きていけないといふことであらう。聖書を例に挙げれば、イエスはその死後に「私はまた来る」と再臨を約束したが、その「時」がいつであるのかを知らない私たちはその「時」を絶望的に待ち続けなければならない。内村鑑三は晩年、再臨を信じて赤城山にこもり、天を仰いでゐたといふが、「歴史を作る者」となることはできなかつた。