30代の頃まで、「自分のふるさとはどこなんだろう?」と思うことがよくあった。
そもそも、ふるさとって何だろう?
ここでは、子供の頃を過ごし、思い出すと懐かしく温かい気持ちになれる場所のことだとしよう。
小学2年生の2学期から5年生まで関東北部の小さな町に住み、小学6年生から中学2年生まで関西の城下町に住み、中学3年生から18歳までまた関東北部の小さな町で暮らした。
その10年間が自分の人生で一番辛い時期で、特に小学6年生のときに関西の城下町に移って以降は地獄だった。
そのため、小学2年生の2学期から18歳まで過ごした場所がふるさとだとは到底思えない。
小学2年生の1学期までを振り返ると、まず生まれた場所は静岡市だった。
私の両親の実家が静岡市で両親ともに静岡市で生まれ育った。
そんな母が出産のため、静岡市の実家に帰省し静岡市の病院で私は生まれた。 1968年のことだった。
ただ、静岡市には1か月ほどしかいなかったので、赤ん坊だった私には当時の記憶は全くない。
生まれてから1か月ほど経って、当時両親が住んでいた兵庫県の芦屋市岩園町という所に私は移った。
芦屋市岩園町には1歳半まで住んでいたが、幼なすぎて全く記憶がない。
1歳半のとき、父親の転勤で東京都大田区久が原という所に移り住んだ。
幼少期の私は記憶力が非常に良く、2歳の頃からの出来事はほとんど覚えている。
2歳の夜、耳の痛みと高熱のため親に抱きかかえられながら、土砂降りの雨の中、耳鼻科に運び込まれたこと。当時の中耳炎の治療はひどく痛かったこと。
近所の子どもたちと遊んだり、けんかをしたりしたこと。
池上本門寺で鳩にエサを与えたりしたこと。
3歳のとき、同い年の近所のY子ちゃんという女の子と周囲の大人たちに「将来、結婚するんだ」と二人揃って言って驚かせたりしたこと。
そして、Y子ちゃんとはある夕方2人で手を繋ぎながら家とは反対の方向に歩いて行って迷子になり、巡回中のパトカーに乗せられ池上警察署で保護され、第二京浜を挟んで道路の反対側で自分の母親、Y子ちゃんの母親、近所の大人たちが手を振っていたこと。
他にも多くの出来事をはっきり覚えている。
ちなみに、結婚の意味も分からず、2人で「将来、結婚するんだ」と言っていたY子ちゃん一家は、転勤で余所へ引っ越して行った。
そして、4歳のとき、私も父親の転勤で大田区久が原から三鷹市上連雀に引っ越した。
三鷹の幼稚園はあまり良くなかったが、近所の子供たちとじきに友達になっていった。
三鷹市立南浦小学校に入学してからは、学校でも友達が増えていき、毎日暗くなるまで遊んでいた。
当時の自分は、男の子からも女の子からも好かれていたように思う。
とりわけ、近所の女の子たちがなぜか私の周りにばかり集まってきていた。
「モテ期」という言葉があるが、人生最大の「モテ期」だった。
とりわけ、2歳年下のRちゃんという女の子とは外で遊ぶだけでなく、頻繁にお互いの家を行き来していた。
Rちゃんは自分を慕ってくれ、自分もRちゃんといると楽しかった。心が繋がっている感じがした。
もし小学2年生のときに関東北部の小さな町に引っ越していなかったら、Rちゃんは運命の人になっていたかもしれない、と今でもたまに思う。
冒頭で、(ふるさととは)子供の頃を過ごし思い出すと懐かしく温かい気持ちになれる場所のことだとしようと述べたが、大田区久が原と三鷹市がまさにそれに当たる。
30代の頃まで自分のふるさとはどこなんだろうと思うことがあったが、今では、大田区久が原と三鷹市上連雀こそが自分のふるさとであり、大田区と三鷹市の両方に接している世田谷区は、まさにその両方の要素を兼ね備えた場所だと実感している。
2011年に千葉の九十九里浜の近くから世田谷区に引っ越して来たのだが、当初は全く新しい土地に住み始めたと思っていた。
あれから13年が経つが、大田区久が原と三鷹市の両方の要素を持つ世田谷区に移ったことは、ふるさとへの帰還だったのだと心底思うようになった。